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2009/05/18(月)
その3
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満月の梨園で女性に刺されてから数日が経っていた。遅めの朝食を摂りながら、シェローロは呻いた。スプーンを手にした右腕の付け根、包帯で巻かれた傷が痛む。あの後結局、女性の美女っぷりに惚けていられたのも最初の一日だけで、肩の怪我とそれに対する周囲の反応は、彼を少しだけ冷静にした。手当てして貰うに当たって『昼間散歩の時に落とした煙草入れを探そうとしたら、背後から突然刺された。相手はわからず顔も見ていない』という説明をした所、夜間の見回りの使用人が増えた。 (あの女、次に遇ったら絶対ひっ捕らえて、なぜあのようなことをしたのか喋ってもらうぞ) 彼が決意したその直後、朝食を終えたテーブルに初老のあの男がやってきて、今朝早くに手紙が何通か届いていることを耳打ちする。 「戦争は始まっているからな。母上も心配事が多いのだろう」 「そうでしょうな」 部屋に戻ると封筒の宛名を見る。友人から二通、母から一通。ざっと目を通すが、今度はどの手紙にも宛名に偽りはなさそうだ。母親からの手紙も、いつも通りの近況報告と、さらに枚数を重ねた戦争の心配事で埋め尽くされている。ここまで長いと読むのも一苦労だが、どれ、たまには返事でも書こうとペンを取り、ゆったりと机に向かったシェローロは、すぐ左手の窓の外から何者かがこちらを覗いているのに気付き、心臓を氷で冷やされるような思いをする。驚いた彼は椅子からずり落ち、ついでにインクの瓶も倒し、机の一部が悲惨なことになった。一瞬あの女性かと思ったが、無礼にも窓を開けて入って来たのは、女性とは似ても似付かぬ地味な少女だった。雀斑(そばかす)とお下げがチャームポイントです、といった出で立ちで、こんな少女ならそこらの街角でいくらでも捕獲出来そうだ。シェローロは驚いたのを内心恥じながら起き上がり、なるべく怖い声で言った。 「何だお前は?ここは子供の遊び場ではない。すぐに出て行け、さもなくばつまみ出すぞ」 しかし、地味な少女は全く怯む様子を見せない。それどころかぱあっと明るい笑顔を浮かべ、変わった形に編まれたお下げを揺らして、嬉しそうに喋り出した。 「はじめまして、シェローロのお兄ちゃん!わたしの名前はレフレシェセ=ル=レクチェ。あ、名前はいくら呼んでくれてもいいの。それで今日はね、ちょっと尋ねたいことがあって……」 「つまみ出すからな」 シェローロにお下げと腕を引っ張られながらも、レフレシェセと名乗った地味な少女は喋っている。 「最近ここに、ちょっと可愛い女の子が来なかった?あのね、その人、見た目は可愛いけど、男の人なの。女装してるの」 「何!!?」 つーか、またそのパターンかよ、この詐欺師が!思わず振り向きながらレフレシェセのお下げを引っ張ってしまうシェローロ。 「嘘よ。冗談。そんな人いるのかしら?」 男性の力で思い切り髪を引っ張られたというのに、全く動じずにレフレシェセはくすくす笑った。 「ほんとの用件はね――前にここに来たっていう女の人が、今夜、お兄ちゃんのお屋敷の屋根の上で待ってますけど、来られますかって。都合が悪かったら帰りますから、お返事下さいって言ってたの」 「………ははーん」 レフレシェセはにこにこ笑っている。つまりこの子は、あの女のメッセンジャーということか?その辺で遊んでいる所を頼まれたんだろうか。屋根の上なら見張りもいないし、突き落とすだけなら凶器もいらないということで、今度こそ本当に自分の命を奪ってやろうということなのだろうか。しかしそれにしては相変わらず事前連絡してくる辺りが間抜けというか、きっちりしているというか。シェローロは何だか妙なもやもやとした気持ちに加え、痛む傷のことも思い出し、いっそこのことを使用人に伝えて屋根に張っていて貰い、自分は安眠してやろうか、と珍しくまともなことを考えた。女性は捕まえておいてもらって、後で事情を訊き出す。名案だ。 「そうだな……では、行くと伝えておいてくれ」 地味な少女はそれを聞いて大きく頷き、『自分はなんていい仕事をしたんだろう』というような満足げな表情を浮かべている。シェローロの顔を見上げて、嬉しそうな声で言った。 「うん!お兄ちゃんありがとう!じゃあこれ、渡してって頼まれたの。約束の印ね」 そう言って花の細工のされた銀の煙草入れをシェローロに持たせると、再び窓の所に走っていって大きく開け、さっさとそこから降りて行ってしまう。見えなくなるお下げ。シェローロは慌てた。 「おい待て!落ちたらどうする…」 窓に駆け寄ると、レフレシェセは屋根とバルコニーの柱と手すりの間とを滑ったり捕まえたりしながら器用に降りて、ちょうど地面に着地した所だった。それからこちらを見上げて大きく手を振りながら、庭の裏手へ消えていく。子供にしかわからないような場所に抜け穴でも見つけて、そこから潜り込んだのだろう。 (だが賊でも普通はこんなこと出来んぞ) この部屋は四階なので明らかに何かを無視した運動神経だ。とてもシェローロには真似出来そうになかった。少女の将来は有望であり、恐ろしくもある。 (それはそうと、だ) 命を狙われた坊やは、眼鏡を直しながら手元の煙草入れに視線を落とす。安物ではない。繊細に美しく施された花の細工は、どこかで見たことがあるような気もする。これをシェローロではなく通りの商人などに渡せば、まず間違いなく持ち逃げされ、高く売り捌かれるであろう。 (こんなものを、わざわざ渡しにくるというのは……) シェローロには女性の考えが読めなかった。思考停止すると同時に、持ち前の飛躍下心、もとい妄想が浮かんでくる。これはもしかしたら?いやいや、まさか。 (さて、どうしたものか……) 夜までにはまだ時間がある。太陽は眩しく、天気は相変わらず良い。恐らく今夜も晴れるだろう。シェローロはもう一度、困惑と苛立ちの入り混じった、しかしどこか嬉しさが滲んだような表情で、手元の銀細工を眺めた。
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