pissのつぶやき
江戸屋日記に成りつつある今日この頃…
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2009年1月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新の絵日記ダイジェスト
2010/04/12 開幕戦筑波TSR編
2010/04/09 開幕戦筑波コニー編
2010/03/30 開幕間近!
2010/03/21 ふるさと
2010/02/24 もう3日目です

直接移動: 20104 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 月 

2009/01/31(土) また逢う日まで
24日の朝届いた今年の参戦計画にはしっかり「ST600辻村猛」そう書かれていた
藤井氏の話によると引退を決めたとチームに挨拶に来たのがその24日と言うから
エントリー締め切りが迫り最後の最後まで悩んだ結果の苦渋の決断だったと思う

私が初めて辻村選手を観たのはWGP参戦一年目、確か18歳位だったと思う
表彰台ではにかみながら笑う口元から軽く八重歯が覗いて初々しかった

当時はあの坂田選手が「タケは天才」としきりに言っていた
「カズート」はイタリア語で「転倒」その名前に負けないアグレッシブな走りで人気者だった
もう一方の辻村選手は大人しい印象に思えたけれど海外メディアもその速さを絶賛していた

『新人の辻村に対して坂田は一切の情報を隠していた』とは藤井氏の談
同じピットで同じマシンを使いながら完全秘密主義を貫くほど
その才能に危機感をあらわにしていたんだと懐かしそうに笑っていた

途中数年ヤマハワークスで過ごした以外の延べ10数年を共に戦った選手が
突然全く別の世界へ進む事に成ったんだもの淋しくないはずは無いけれど
『辻村らしく短い言葉だったけど、とても清々しく男らしい良い表情でしたよ』
そんな言い方がいかにも藤井氏らしくて二人の姿を想像すると少し切なくなった

そういえばまだヤスが全日本のST600クラスを走っていた頃
レースのビデオを観ながら「バトルになって一番手ごわいのは?」と聞いたことがある
間髪入れずに返って来た答えが「辻村さん」だったのを思い出す
二人が優勝を争いヤスが競り勝ったのがそれを聞いた直後のオートポリスだった
暇な時にでもVTRを探してもう一度じっくり観てみたいな

辻村選手はレースの次にやりたい事だったゴルフ場への就職が決った
プロゴルファーになるなんて言わないのは彼らしいしそれを望んでもいない様子
競う事から離れ第二の人生は好きな事を楽しむ道を選んだのかも知れない
コース整備をしながらゴルフの腕を上げる努力をして行くそうだ

とは言えそこは三重県にあるそうだからサーキットでまた逢えるかもしれないね


*テントで顔を合わせると目を見て礼儀正しく挨拶する好青年でした(このメットは'04だったかな?)*

2009/01/20(火) 一つの出逢いから
土曜日の江戸屋はジャニ君の壮行会だった

「イタリアで仕事しながら休日はサッカーを観て暮らすんだ」

そんな夢のような生活を実現するためにフィレンツェへ旅立つ
聞けば泉ヶ丘中サッカー部の頃から語っていた将来の夢だったそうだ
集まった仲間達も彼の夢の実現を自分の事のように喜んでいた
27歳の決断、単身異国で暮らす自信と準備を整えるのに10数年の年月を要した
いずれにしても仲間が遠くへ行ってしまう事に寂しさが拭えないのも事実
皆あえてそれを胸の奥に閉じ込めるかのようにいつもと変わらない他愛のない話で盛り上がる

仲間内ではヒロ君と呼ばれている彼にジャニ君と名付けたのは柴王だ
初めて来た時に「目がクリクリしててジャニーズ系だからジャニ君」と勝手に命名
中学時代からパンチ佐藤に似ていると言われていたようで仲間達は大爆笑
本人も気に入ってるし江戸屋限定でヒロ君はジャニ君と呼ばれるようになった

そろそろお開きにとみんなで写真を撮るとジャニ君が急に目を潤ませ「江戸屋の事は忘れないから…」
柴王はホントこういうのに弱い…ここは笑顔で送り出さなくちゃダメなのにね

一人との出逢いが新たな出逢いを生みそこからたくさんの枝を広げて大きな樹になる

ジャニ君に繋がる最初の根っこは中学時代に店の近所の塾に通っていたH君とT君
大人になり週末にサッカーを楽しむ仲間を連れて江戸屋に飲みに来るようになった
その時々で集まる面子は違っても毎週のように誘い合わせて顔を出すようになり
ある日、丁度居合わせたヤスがその楽しげな団体に乱入して一緒に飲んだことが有った

普段はどちらかと言うと人見知りだけれどお酒が入ると陽気なお兄ちゃんになるヤスを
何だか分からないままに迎え入れてみんなで楽しく飲んでいた

後でヤスの職業を知りその活躍振りに驚いたのは言うまでも無いけれど
そのうちの何名かはそれがキッカケでレースに興味を持つようになって
全日本やMotoGPを観戦するようになったのだからヤスのお酒も満更捨てたモンじゃないね

さて月曜日はそのヤスとトシさんの所へ
4日に帰って来て幾つか仕事をこなしながら比較的長い帰郷に成っている様子

ジムの帰りにお店に寄った所を「時間ある?」と誘って急遽出かける事になった
お願いしていたヤス絡みの用事は私一人で行っても快く引き受けてくれたんだけど
トシさんもヤスの事を心配して色々と力を貸して応援してくれている一人だから
出来れば一緒に顔を出せたら良いなと思っていたので一つ肩の荷が下りた
私にしても知識豊富なトシさんの話で色々勉強になったし有意義な訪問でした


*後にヤスとの出逢いに繋がる一番最初の根っこはFCC社員のS田さん。青い旗持ってる大きい人*

2009/01/07(水) 初詣
やっと通常の生活リズムに戻った
年中無休24時間のコンビニを営業しながらの年末年始はホント過酷です

3日はご年始にやってきた兄夫婦と歩いて二荒山神社へ
宮っ子は親しみを込めて「ふたらさん」と呼ぶけれど正式には「ふたあらやま」
江戸時代に日光東照宮へ家康詣する諸大名の宿泊を担っていたのが宇都宮城で
その真北に位置する小高い山に日光二荒山神社の分社が建てられた
雪深い季節は日光詣が出来ないので宇都宮がその代わりを務めていたそうだ

我が家は宇都宮城の武家屋敷に位置する場所にあり現在も史跡が残っている
2件先の路地を入ると明治8年建立の古い鳥居がありその奥に歴代の城主が眠る
家の斜向かいには延命地蔵尊、その石段を下りた所ヤス達が車を停めておく場所は
宇都宮城の外堀、地蔵掘と呼ばれた辺りに位置している
小西さんはお地蔵さんの石段を初めて通った時に「何か有るね」と目敏い
説明すると「えぇ所に住んではるんやね」と、さすが京都人だなぁと思った

その宇都宮城も江戸の終わりの戊辰戦争で天守閣が焼け落ち一つの時代が終る
戊辰戦争の時に旧幕府軍として城を守る戦いに加わったのが新撰組の面々で
土方歳三や斉藤一は近藤勇が京の河原で処刑された事をこの地で知らされた
この延命地蔵尊が武器庫や寝泊りの場に成っていたとの史実があり
昭和の時代になり、下水道の整備のため掘り起こした家の前の道路から
旧幕府軍の武器の数々が大量に出てきて大騒ぎになったのは私が10歳の頃だった

さてすっかり話が逸れたけれど兄の二荒山詣では相当久しぶりで
変わらないもの、すっかり変わってしまったもの、行きも帰りも驚きの連続
あそこはまだ有るのかな?有れば有ったで寄らずにはいられないし
寄り道しては懐かしがって家までの道のりが長い事長い事…
ずっとこの地で暮らしている私には当たり前に思えるものも
東京の大学に通いそのまま故郷を離れた兄には懐かしい風景なのだろう

今年はその故郷を離れ鈴鹿で新しい年を迎えたヤスはどんなお正月を過ごしたのかな
向こうのお雑煮は何味なのかなぁ?やっぱ関西のに近いんだろうか
以前京都から白味噌を送って戴いて京風のお雑煮の作り方を教わった事があった
野菜の具に焼かない丸餅、仕上げにたっぷりのかつお節をかける
お醤油たぷたぷのこちらのとは全く別物で新鮮な美味しさでした



*私が小学生の頃まで地蔵守の老夫婦が住んでいた延命地蔵尊は今でもお参りの人が絶えない*


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.