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2004/11/07(日)
隠し剣 鬼の爪
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もしこれが山田洋次監督の最初の時代劇作品であったら、そしてぼくらが『たそがれ清兵衛』を知らなかったら、ぼくは文句なくこの作品に5つ星を献上しただろう。 しかし残念なことに(あるいは幸運なことに)、ぼくらはすでに『たそがれ清兵衛』を知っている。
ぼくがこの映画を見ながら思っていたのは、山田洋次監督が偉大なるマンネリズムの作家だったという事実だ。 もし渥美清がまだ存命だったら、山田監督はいまだに寅さんを撮り続けていただろう。 そして劇場にはお約束のギャグと予定調和のストーリーを楽しみにしたファンが詰めかけていただろう。 70年代に何本かの寅さん映画を夢中で見たぼくは、それを悪いことだとは思わない。 しかし『隠し剣 鬼の爪』を観ながら、ぼくは「二番煎じだなあ」と何度も思った。
『たそがれ』の真田弘之と宮澤りえは『隠し剣』の永瀬正敏と松たか子である。 そんなことはだれでもわかっている。 だが、同じ幕末の同じく東北の藩で、同じような貧乏侍は同じように剣の名手で、同じく藩命で人を斬りにゆく。 まさかここまで同じだとは予想もしていなかった。
ただし、ぼくが二番煎じと感じたのはここから先のことである。 『たそがれ清兵衛』が静かな美しさをもっていたのは、山田洋次監督が徹底してリアリズムにこだわったからである。 このことについては以前の日記にも書いたので繰り返さないが、それは言葉を換えていえば、時代考証という部分での写実主義と、人間の内面の描写という部分での自然主義の見事な調和であった。
ところが今回はそこに勧善懲悪が入ってきた。 ぼくは勧善懲悪が悪いといっているのではない。スターウォーズやインディ・ジョーンズのようなハリウッド娯楽大作大好き人間なのだから。 しかし『隠し剣』では、リアリズムと勧善懲悪がうまく調和できないで、『たそがれ』のような静かで美しいたたずまいをもつ映画にはならなかった。
同じ藤沢周平の原作で、同じく山田洋次と朝間義隆が脚本を書き、同じく山田洋次がメガホンを取った。 『たそがれ清兵衛』のときには初めての時代劇という緊張も気負いもあっただろう。 しかし、『隠し剣 鬼の爪』にはすでに手馴れた感触があった。 それが「二番煎じ」というvいになったのだと思う。残念である。
2004年 松竹映画 145分 ヴィスタ・サイズ
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