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2004/04/17(土)
和田誠と村上春樹の『ポートレイト・イン・ジャズ』
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和田誠の絵に村上春樹が文章を添えた『ポートレイト・イン・ジャズ』を読んでいる。3月はぼくの誕生月だったので、相棒のRisaさんがぼくに買ってくれたのである。 以前単行本で出ていたのをぱらぱらと立ち読みしたことはあったのだが、うれしいことに文庫本になって、しかも正と続が1冊になっている。 これはお得ですよ。
ところで和田さんの絵に文句はないが、春樹さんの文章にはちょっと注文がある。 村上春樹とジャズは切っても切れない縁があり、デビュー作の『風の歌を聴け』にもたしかスタン・ゲッツが出てきたと思うが、作家になる前にはジャズ喫茶でアルバイトしていたこともあるという、正真正銘、ジャズと暮らしてきた人である。 そういう彼に、和田さんが描いてみせたような名人芸を期待したのだが、少しばかり当てが外れてしまった。
もちろん音楽を文章で表すことは難しい。不可能と言ってもよい。 音楽は音楽でしか表現できないから音楽なのだ。 それはそうなのだが、あまりにも比喩に頼りすぎているところがある。 たとえばキャノンボール・アダレイについて、彼はこう書く。
「その世界は、遠い町にある、懐かしい部屋みたいに、ただしんとしている。キャノンボールがホーンのリードを震わせると、そのひとつひとつの音符が 不揃いな背丈で立ち上がり、そっと床を横切ってこちらにやってくる。そして心のひだに、小さな柔らかい手を触れていく。」
どうですか。素敵な文章ですよね。 でも、まるで最近の彼の小説のなかの一つのフレーズのように、比喩のための比喩という気がぼくにはするのだ。
たとえば上の「キャノンボールがホーンのリードを」というところを「マイルズ・デイヴィスがトランペットのリードを」に変えても、「ビル・エヴァンズの指が鍵盤を」に変えても、通じると思いませんか。 こちらに音楽をそういう風に受け止める姿勢があれば、だれの演奏だってそうなる。
もちろん春樹さんの文章が全部そうだと言ってるのではない。 へえ、と感心したり、なるほど、と納得したり、そうだったのか、と得心したり……とても楽しかったのだが、ちょっと気になるところもあったということです。
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