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2004/05/11(火) Midoさんの日記、日記文学
Midoさんの日記を読んでいると、ときどき妙な罪悪感のようなものを感じることがある。若い女性の日記をこっそりと盗み見ているというような根拠のないうしろめたさのようなもの。

もちろんMidoさんは人に読ませるために日記を書いているのだから、こちらが罪悪感を感じる必要はないのであって、それはMidoさんの責任でもない。
でも昨日の夢の話のような妙にリアルでなまなましい話を読むと、なんとなくいけないかなあという気分に満たされるのである。

考えてみれば日本の古典文学には日記文学という代表的なジャンルがあって、その嚆矢はいうまでもなく貫之の『土佐日記』であるが、彼が『土佐日記』を書いたのは土佐守の在任中に亡くした愛娘への絶ちがたい追慕の情を表現するためであった。
その言いようのない悲しみを文章として綴るためにどうしても女手(ひらがな)が必要だと悟ったとき、貫之は女性に仮託して心情を述べるというフィクションの構図を選ばざるを得なかったので、必然的に『土佐日記』は「日記」ではなく「日記文学」になったというべきだろう。

その後に生み出された数々の日記文学の傑作はみな女性の手によるものだが、考えてみればMidoさんの日記も、こうした日記文学という大河のような日本文化の伝統のなかにあるのかもしれない。

これはもちろんMidoさんの日記がフィクションであるということを意味しない。ただ人の目に触れることを意識したときに、わたしたちは意識的にせよ無意識的にせよ、書くことの取捨選択をしているのであって、それをフィクションというのであればMidoさんの日記も十分フィクションが含まれているということはできるかもしれない。

そうして日記のなかのMidoさんと掲示板でやり取りしているMidoさんとのあいだに、わずかなギャップを感じるのもまた事実なのだけれど。


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