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2005/06/09(木) 追悼 ― 漣健児
漣健児(さざなみけんじ)のペンネームで、60年代ポップスの訳詞を数多く手がけた、シンコーミュージック会長の草野昌一さんが亡くなった。

60年代はラジオからもTVからもアメリカン・ポップスが流れてくる時代だった。
中尾ミエ、弘田三枝子、坂本九、小坂和也……。いろんな若い歌手たちがそういったポップスを日本語で歌った。
それらの歌を聞いて育ったぼくは今でも口ずさむことができる。
「可愛いベイビー、ハイハ〜イ、可愛いベイビー、と呼ぶの〜は、愛してい〜るからかし〜ら、プリリルベイビー、可愛いベイビー」
「ヴイ・エイ・シー・エイ・ティ・アイ・オー・エン、楽しいな! ギラギラと輝く太陽背に受けて……待・ち・遠・しいのは、夏休み!」
「グッタイム、ア・ティカ・ティカ・ティカ・ウ〜ウ、グッタイム、パヤパヤパヤパヤ、この世でいちばん肝心な〜のは、素敵なタイミング!」
そしてこれらの訳詞を書いたのが漣さんだった。
グループ・サウンズの時代になって、ゾンビーズの「I Love You」に「好きさ好きさ好きさ」という訳詞をつけてカーナビーツに唄わせたのも漣さんだった。
スゴイ人である。

今年のお正月、車のなかで何気なくラジオを聞いていると、大瀧詠一さんが漣さんと対談をしていた。
それによると、漣さんが訳詞をやめたのはカーナビーツ(だったかな?)のために訳した「オ・ブラ・ディ・オ・ブラ・ダ」がきっかけだったという。
60年代のポップスを日本語の歌詞に載せておもしろいようにヒットを連発していた漣さんは、ビートルズの出現で行き詰ってしまった。
彼らの曲に日本語の訳詞を載せようとしても載らないのだという。
ところが「オ・ブラ・ディ・オ・ブラ・ダ」の訳詞の話が来たとき、漣さんは久しぶりに手ごたえを感じて自信満々に訳詞を書いた。
それが「太郎が花子に恋をして〜」で始まる詞だった。
ところがこれが散々の悪評で、漣さんはすっかり自信を失くしてしまった……。
車を運転しながらだったので、はっきりとは覚えていないが、そんな話だったと思う。

我が愛するビートルズが漣さんの溢れる才能に引導を渡したとは思えない。
けれど、ポップスやロックが日本語に訳されて日本の歌手に歌われる時代が去ってしまったということを象徴する話だと思う。

こころから冥福をお祈りします。


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