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2004/02/17(火)
sideA :父の走った道(2)
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郊外の風景が続く。もっともっと田舎だと思い込んでいた阿蘇への道は、藤沢から大磯へ抜ける1号線より、よっぽど町が繋がっている。郊外型の色々なチェーン店があって、飲食店があって、でもそれは道沿いだけで、奥は無い。
父の言葉をそのまま書くと、「街で二番目だと思われていた、古めかしい名前の進学校」に入学した。最難関の高校でも合格は可能だったが、私学へ行く費用はもう残っていなくて、安全策を取って受験し、合格した。仲の良かった同級生も幾人か合格して、肩を抱き合って喜ぶ、写真が残っている。
中学に入る前、八景水谷の家は売却し、何故か同じ町の賃貸住宅で祖母と父は暮らしていた。豪邸では無いが瀟洒な贅を尽くしたその家は、ある意味「妾の家」に相応しく、いくら頭を低くして暮らしても、周りの目は決して好意的では無かった。
それでも祖父が通っていた頃は、多少の遠慮が、いや、祖父に対しての畏怖があからさまな蔑視の目を遮っていたが、「妾」から「見捨てられた妾」になった時、もう遠慮は何処にも無くなっていった。
街が切れ、大津の町を過ぎ外輪山の切れ目を抜けると、阿蘇山が正面に迫って来た。煙を吐く姿はあまりにも絵葉書通りで、クスッと笑ってしまう。父はこの道を何度もバイクで走った。小学生の時から新聞配達を始め、短時間で稼ぎが多いとの理由で、まだ集合郵便受けなんて無くて、エレベーターの無い5階建ての建物が並ぶ団地を受け持ち、階段を駆け上って駆け下り、玄関ドアに新聞を配った。その団地で、より稼ぎのいい牛乳屋の大将に声を掛けられて牛乳配達に変わり、16才で自動二輪の免許を取って、18才の誕生日には自動車の仮免許の試験を受けていた。「足が丈夫で早いのは、団地のおかげだよ」とよく笑って話していたっけ。
ヤカンタンクのCB400Tが最初のバイクだった。17才になって手に入れたそのバイクと一緒に父は少しだけはめを外した。祖母と一緒に肩を寄せ合って、家計を助け、勉強も怠らず、気持が悪いくらいイイ子な父が、草千里を背景にショートホープを咥えて、笑っている。一見して判る随分年上の水商売の女性がいて、二人は身体を絡めていて性的な香りがする。そして、その頃の手帳の日付けの幾つかには「S」と書いてあって「MY」とか「KH」とかホテルやモーテルらしい暗号がついていて、恐らく性交した日が記録してある。今の私には判る。
火山博物館はもう閉館時間を過ぎていて、父の写真にも写り込んでいた、観光乗馬用の馬もいない。閉店の準備に忙しい土産物屋で、煮詰まったコーヒーとレタスのしおれたホットドックを買った。おばさんはその二つをじっと見つめて、「半額でいいわ」と笑った。私は「ありがとう」と笑った。
外輪山にまだ夕日はかかっていなくて、時計を見て、私の住む町とは日没時間が一時間近く違うんだなぁなんて、間抜けな事を考える。苦いって言うより、煎じ薬みたいなコーヒーに、今日は砂糖とミルクも入れて、ホットドックにかぶりつく。ススキの穂は枯れていて、ザッと吹く風はもう冷たい。
もう少し私は走る。走り続けられるだけは走る。
雨が少し落ちてきて、見上げる空の雲は早い。もう少し走ろう。
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