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2003/10/18(土)
side A:良寛 さま
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ベランダが濡れている。昨日の雨が朝まで続いたのか思ったら、薄い雲の浮かぶ高い晴れた空があって、今年初めての秋露が降りた事を知った。
少し前の話になるんだけど、アニメの「良寛さん」の無料試写会へ行った。なんでそんなのに行ったかと言うと、実は私は坊主頭の年寄りフェチなのだ。って言うのは嘘で(笑)、良寛さまの人生に惹かれる。
始めに出逢った良寛さまは、日がな一日を「かくれんぼ」や「毬つき」などで子供達と遊ぶ、なんだか、のんきな、絵本の中のお坊さんだった。それが変わったのは、父の遺書だった。
形見とて何かのこさむ春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉
この良寛さまの辞世とも言われる有名な歌が、父の遺書に添えてあった。それが、良寛さまとの二度目の出会いだった。
アニメの良寛さんは、絵本にも載っていた、お家に竹の子が生えちゃって、そのまま育ててあげようとして、床と屋根に穴を開けちゃう挿話とかがあって、出来はまぁまぁだと思ったけど、やっぱ子供向けだった。当たり前だけど。実像の良寛さまは、のんきになるまでって言うか、その境地に辿り付くまでに、凄まじい人生がある。
良寛さまの生地である、越後の国、出雲崎は、7万石の幕府天領で、生家は、代々この地の名主と神官を兼ねる豪商橘屋山本家だった。彼が生まれた時代のこの地は、佐渡金山との渡船及び、北廻り廻船の集積地で、殷賑を極めていた。その嗣子として生まれ、18歳で名主見習となるも、1年経たずに、曹洞宗へ帰依し托鉢僧として出家遁世してしまう。そして、22才の時に終生の師と慕う事となる、備中(岡山県)玉島の国仙禅師の門下となり、その住寺である円通寺で11年の修行時代を過ごすが、国仙禅師が亡くなった後、住待(お寺の責任者となれる資格)を授けられる事もなく、寺を追われる。
「良寛」の名の由来は、国仙禅師が授けた雲水修行の印可の書き出しにある。
良や愚の如く道転た寛し (”判らない事を知ったような振りをするよりは”愚のようにある事は良いことだ。その前には、仏の道が広々と開けている。)
国仙禅師が良寛さまに見出した優れた本質は「愚」だった。そして若年からの良寛さまは「愚」を「愚」であるとしか見ない人々に排除されつづける。
それから良寛さまが38歳までの事跡は殆んど残っていない。そして38歳の良寛さまを襲うのは、実父の京都桂川への入水自殺だった。そしてその2年後、俊英を謳われ、朝廷の学寮、京都勧学館の塾頭にまで昇っていた弟の、同じ桂川への入水自殺だった。
そして良寛さまは帰郷する。しかし、そこで目にする物は、自分が捨てて、次弟が継いだ実家、橘屋屋山本家が没落し、そして罪に問われて所払いになる姿だった。良寛さまが五合庵という安住の地を見出すのはそれからまた8年近い時が流れた、48歳の時になる。
70才になった時、良寛さまは40才歳の離れた貞心尼と出逢う。愚であり個であり続け、求道の為に俗の縁を捨て、そして俗の縁が切れて行くのを、近親であっても座視し続けた、あるいは座視するしか方法の無かった彼が、初めて出逢った心を通わせる「対」の人だった。
しかし、75歳で入滅するまで良寛さまの愚は続く。何も持たず、何も求めず、そして何にも属さず、ただただ愚に生きた。権力にも地位にも財力にも、そして名誉にも執着せず、ただただ愚に生きた。
私の心に刺さる句がある。
焚くほどは風がもて来る落ち葉かな (身分不相応な暮らしを望まなければ"自分独りが"煮炊きや暖を取るくらいの燃料は、風が運んでくれるものです。)
父はきっとこの句を知っていた。でも父は私達のために、頑張って頑張って、働いてくれた。きっと自分のためじゃなく。そして死んだ。
いつから父が良寛さまに傾倒していたのかは判らない。本箱には良寛さまの本が何冊もあり、そして最後に浮かんだ言葉もその歌だったことは間違い無い。でも、父が何を私に伝えようとしたのかはまだ判らない。私は、今の毎日を選び、そして暮らしている。
ずっと判らないかも知れないけど、これからも私は、考えて続けていこうとは思っている。私自身も惹かれているし。
長くて硬くて、こんな日記に付き合って下さった方、ごめん。
******************************************************** 参考 ☆「良寛にまなぶ「無い」のゆたかさ」 小学館文庫 中野 孝次 著 ☆「良寛 」 中公文庫 水上 勉 著 ☆「蓮(はちす)の露―良寛の生涯と芸術 」教育書籍 ヤコブ フィッシャー 著 ☆「良寛」 講談社学術文庫 井本 農一 著 ☆ 「良寛」 春秋社 吉本 隆明 著 ☆「校注 良寛全歌集」春秋社 谷川 敏朗 著 ☆「良寛異聞」 河出書房新社 矢代 静一 著
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