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2004/02/08(日) side A:父の走った道
バイクを降りて、八景水谷の街を歩く。あまり残っていないこの街での父の写真を頼りに、堀川の駅、菅原神社、そして八景水谷公園を巡る。父の死後初めて知った、その頃住んでいた場所にも行ってみる。

父は私生児だった。私生児だったが幼い頃は3人家族で暮らしていた。でも、認知は最後までされなかった。取り寄せた戸籍の「父」の欄は空白で、私には父方の祖父は存在しない。戸籍上は。
最初から一緒に暮らしていなければ、父の思いはまた違ったものになった気がする。祖父に抱かれ、手を引かれ、肩車をされた父の写真がある。でも、受験の時に取り寄せた戸籍謄本に、その祖父の名前は無い。その事実を受け止めた時の父の心は想像に余りある。

富裕だった祖父は、幾ばくかの金銭を置いて、祖母と父を切り捨てた。置き去りにされた、祖父から与えられた大切だったおもちゃや、自転車や晴れ着は捨て去る事が出来ても、笑顔や時や思い出達を持て余して暮らす、二人暮しが始まったのは父が小学校の3年生の時だった。そして確かに過ごしたはずの家族の日々も、最初から認められていなかった子だという事実のために、父の中では反転していった。

写真の中では砂利の道も、今はアスファルトに被われている。写真の中にあった父の家は、もう無くて、そして住所さえもう無かった。尋ねて行ったその場所には瀟洒な洋館が建っていて、門の中にはシェルティーが放し飼いになっている。隙間から突き出す鼻先を軽く撫ぜてやると、嬉しそうに声をあげる。

きっと笑顔もあったよね、いっぱい。

私は歩いてみる。時を隔ても少しづつ歩いてみる。そして、この街で過ごした父はいまの私より年下だったことに気付く。

頑張ってくれた。でも一人で頑張りすぎて、一人で考えて一人で逝ってしまった。

八景水谷をあとにして、私は父のノートにあったツーリングの跡を追って見ることにしていた。高速道路の下を抜けて、阿蘇に向かう。天気は少し崩れかけていたけど、気にはならなかった。


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