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最新の絵日記ダイジェスト
2006/06/04 side A: ひさしぶり
2005/09/17 side A : ひまわり
2005/09/16 side A : 空 
2005/09/15 side A : そして
2005/05/23 side A : レースフラワー

直接移動: 20066 月  20059 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 月  200311 10 9 月  200212 10 8 7 6 月 

2003/10/26(日) side A: 軋む
時間が欲しい。この日記に書きたい言葉が生まれているし、せっかく頂いたメールの言葉にもお返事がしたい。

モバイルを持ち歩いて少しづつ言葉を残す。電車の中や、お風呂上りや、少し早めに終わった講義の後に。でも、その言葉達はバラバラで、読み返してみると自分でも意味が判らない。

焦っているのが自分でも判る。お仕事は順調だし、試験の結果も決して悪く無かった。でも焦りがある。

お見舞いに行っても、母に会えなくなってもう3週間になる。そして、この2年間頑張ってくれているおばぁちゃんが、昼間、突然失禁してしまって、本人がすごく落ち込んでから10日が経つ。妹は、少しづつ大人になってきていて、少し私のバイトを怪しみ始めているし、弟は、そんな何と無くの空気を感じて、落ち着かない。

計算してみても、まだ仕事を辞められるお金は溜まっていない。返さなければならいお金も残っている。予定では、2年次までに思い切り働いて、お仕事を終わろうと思っているのだけれど、少しづつ何か軋みが始まっている。

10月になって、またこの日記を書き始めたのは、きっとそんな予兆を感じて・・・・・。嘘だ。もう、軋み始めた事に気付いて、言葉を残そうとしているのだと思う。

朝5時半に私は起きて、シャワーを浴びて復習と予習をする。特に語学はやっておかないとクラスについていけない。自分でも判っているんだけど、高校での2年のブランクは大きくて、いまの学校に入れたのは奇蹟に近い。奇蹟には、心から感謝しているんだけど暮らしを考えると、それが良かったのかは少し不安になる。でも辞めたくないし、進級延期は出来ない。憶えられなくて、理解できなくて、元々良くは無い頭を呪いたくなる事がある。

講義が終わると、仕事に行く。ラス前まで仕事して、家に着くのは1時を回る。そして寝る。基本は2勤1休だけど、週末は稼ぎ時なので出勤させてもらっている。そして休みの日と、生休期間に遅れを少しでも取り戻したくて、勉強する。でも少しづつ遅れる。頭が悪い。

睡眠時間を削ると肌に出る。仕事での体力が続かない。笑い顔が引きつって、会話の流れが悪くなる。そして目に力が無くなって、外出では無くて、店外デートに誘われる事が増える。バックの時にコンドームをこっそり外そうとする、一見さんが現れる。突然指を二本入れられる。お客さんが舌打ちをする。

どうしたらいいんだろうわたし。

今日の日記を書き始めたのは、19日だった。一週間たっても何も変わらない。少しづつ壊れている感じがする。

こわい。

2003/10/18(土) side A:良寛 さま 
ベランダが濡れている。昨日の雨が朝まで続いたのか思ったら、薄い雲の浮かぶ高い晴れた空があって、今年初めての秋露が降りた事を知った。

少し前の話になるんだけど、アニメの「良寛さん」の無料試写会へ行った。なんでそんなのに行ったかと言うと、実は私は坊主頭の年寄りフェチなのだ。って言うのは嘘で(笑)、良寛さまの人生に惹かれる。

始めに出逢った良寛さまは、日がな一日を「かくれんぼ」や「毬つき」などで子供達と遊ぶ、なんだか、のんきな、絵本の中のお坊さんだった。それが変わったのは、父の遺書だった。

形見とて何かのこさむ春は花
山ほととぎす秋はもみぢ葉

この良寛さまの辞世とも言われる有名な歌が、父の遺書に添えてあった。それが、良寛さまとの二度目の出会いだった。

アニメの良寛さんは、絵本にも載っていた、お家に竹の子が生えちゃって、そのまま育ててあげようとして、床と屋根に穴を開けちゃう挿話とかがあって、出来はまぁまぁだと思ったけど、やっぱ子供向けだった。当たり前だけど。実像の良寛さまは、のんきになるまでって言うか、その境地に辿り付くまでに、凄まじい人生がある。

良寛さまの生地である、越後の国、出雲崎は、7万石の幕府天領で、生家は、代々この地の名主と神官を兼ねる豪商橘屋山本家だった。彼が生まれた時代のこの地は、佐渡金山との渡船及び、北廻り廻船の集積地で、殷賑を極めていた。その嗣子として生まれ、18歳で名主見習となるも、1年経たずに、曹洞宗へ帰依し托鉢僧として出家遁世してしまう。そして、22才の時に終生の師と慕う事となる、備中(岡山県)玉島の国仙禅師の門下となり、その住寺である円通寺で11年の修行時代を過ごすが、国仙禅師が亡くなった後、住待(お寺の責任者となれる資格)を授けられる事もなく、寺を追われる。

「良寛」の名の由来は、国仙禅師が授けた雲水修行の印可の書き出しにある。

良や愚の如く道転た寛し
(”判らない事を知ったような振りをするよりは”愚のようにある事は良いことだ。その前には、仏の道が広々と開けている。)

国仙禅師が良寛さまに見出した優れた本質は「愚」だった。そして若年からの良寛さまは「愚」を「愚」であるとしか見ない人々に排除されつづける。

それから良寛さまが38歳までの事跡は殆んど残っていない。そして38歳の良寛さまを襲うのは、実父の京都桂川への入水自殺だった。そしてその2年後、俊英を謳われ、朝廷の学寮、京都勧学館の塾頭にまで昇っていた弟の、同じ桂川への入水自殺だった。

そして良寛さまは帰郷する。しかし、そこで目にする物は、自分が捨てて、次弟が継いだ実家、橘屋屋山本家が没落し、そして罪に問われて所払いになる姿だった。良寛さまが五合庵という安住の地を見出すのはそれからまた8年近い時が流れた、48歳の時になる。

70才になった時、良寛さまは40才歳の離れた貞心尼と出逢う。愚であり個であり続け、求道の為に俗の縁を捨て、そして俗の縁が切れて行くのを、近親であっても座視し続けた、あるいは座視するしか方法の無かった彼が、初めて出逢った心を通わせる「対」の人だった。

しかし、75歳で入滅するまで良寛さまの愚は続く。何も持たず、何も求めず、そして何にも属さず、ただただ愚に生きた。権力にも地位にも財力にも、そして名誉にも執着せず、ただただ愚に生きた。

私の心に刺さる句がある。

焚くほどは風がもて来る落ち葉かな
(身分不相応な暮らしを望まなければ"自分独りが"煮炊きや暖を取るくらいの燃料は、風が運んでくれるものです。)

父はきっとこの句を知っていた。でも父は私達のために、頑張って頑張って、働いてくれた。きっと自分のためじゃなく。そして死んだ。

いつから父が良寛さまに傾倒していたのかは判らない。本箱には良寛さまの本が何冊もあり、そして最後に浮かんだ言葉もその歌だったことは間違い無い。でも、父が何を私に伝えようとしたのかはまだ判らない。私は、今の毎日を選び、そして暮らしている。

ずっと判らないかも知れないけど、これからも私は、考えて続けていこうとは思っている。私自身も惹かれているし。

長くて硬くて、こんな日記に付き合って下さった方、ごめん。

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参考
☆「良寛にまなぶ「無い」のゆたかさ」 小学館文庫 中野 孝次 著
☆「良寛 」 中公文庫 水上 勉 著
☆「蓮(はちす)の露―良寛の生涯と芸術 」教育書籍 ヤコブ フィッシャー 著
☆「良寛」  講談社学術文庫 井本 農一 著
☆ 「良寛」  春秋社  吉本 隆明 著
☆「校注 良寛全歌集」春秋社 谷川 敏朗 著
☆「良寛異聞」 河出書房新社 矢代 静一 著

2003/10/16(木) side A:ファインダーのこちら側 
ドアを開いて、4畳半の壁を埋める本箱の下の段から取り出した絵本は、うっすらほこりをかぶっていた。母は本が大好きで、幼い頃から読み継いできた様々な本がギッシリ詰まっているこの場所は、私にも大切な場所だった。

今はブームになってみんな知っている指輪物語や、読んでからは、いつか家の衣装箪笥も雪の降り積もる、アスランの住む国へ繋がるのではないかと毎晩ドキドキしたナルニア国物語は、まだ少女だった母が買って、ずっと大切にしていた本を、私も読んだ。何だか目付きが悪くて、最初はあんまり好きになれなかったダヤンも、ワチフィールドで起こる様々な物語を読み進む中で、いつか愛しい友になっていったし。

今日最初に手に取った絵本は、三木卓さんの「ぼくたちのこと好きですか」だった。一人ぼっちの女の子と、子ぎつねたちのそのお話は、どうしようもない、人の心の移ろいの物語で、とってもとっても悲しくて、最初に読んだときは、ぽろぽろぽろ涙が出て止まらなくて、「こんなお話はヤッだッ!」って、本を押入れの奥に突っ込んで見えないようにした。そして、その時私が乱暴に扱ってしまって、杉浦繁茂さんのきれいな絵に、一度寄ってしまった皺を母が丁寧に伸ばした跡があった。

本箱のその段には、母が大切にしている木の額に入った写真が伏せてある。母は、長いきれいな髪をお下げにしていて、裾と襟元と袖にレースのついた青い小花の模様のワンピースを着ている。すこし首をかしげて、楽しそうに笑うその視線のこちら側には、父がいた。

それは、初めて父が母を撮った写真だと、ずっと前に私に話してくれた母は、まるで少女のようにはにかんでいた。

戻ってきてね。少しづつ。

本を元に戻して、すこし、はたきをかけ、掃除機をかけて、私はドアを閉じる。南から吹く風に、海鳴りの音が聞こえたような気がした。

2003/10/15(水) side B:目指せ!ソープ技の達人?(笑)今日は講習。
今日は前から決まっていた休講があった。ちょうどお店の講習の日だったので、早めにお店に出て、しっかり技を磨いてきた。ってその後お仕事もしてきたのだけれど。

ソープの講習って、知らない人が考えると、すごく怪しいモノみたいに思われるているようだ。私自身も、お店に面接に行って、新人講習を受ける前は、いったいどんな事をするのか、とっても不安だった。

よく言われるのは、社長や店長や店員の男性が、自分達の快楽の為に、講習の名を借りて、タダで女の子と遊んでいるとか、面接の時から「味見」と称して、女の子と遊んじゃうとか、まことしやかに語られたり、風俗系の掲示板とかにも書いてあったりする。

控室で何軒かのお店を経験した先輩から、実際にそういうお店も皆無じゃ無いとは聞くんだけれど、そういうお店は当たり前だけど、指名のお客さんを掴んでいて、キチンと接客できる女の子達は辞めてしまうし、今はネットで情報も流れるので、まったく業界を知らずに飛び込んで来た素人新人さんが、ある程度の知識を持って、講習はそんなもんじゃないって気が付くまでだけ働いていたりと、大抵は女の子の出入りが激しくて、流行っていなかったりする。

今のお店の講習は、大きく4種類に分かれている。一つは新人さん講習で、これはソープが始めての人と他店から移って来た人で違う。共通なのは、お客さんの性器のチェックの仕方から始まる。要するに視認出来る範囲での、性病や毛ジラミ、皮膚病を見つける方法から始まる。実技は、まずお店の基本サービスの流れ、椅子、潜望鏡、マット、ベットの確認から入って、それぞれの技を実際に習う。講習員さんは前にお店のNO1を張っていた女性で、女の子は二人以上同時に受けるので、御互いの身体をお客さんに見立てて、練習をする。これはけっこう恥かしい。と言っても、マット以外の時は、Tシャツを着ているし、マットの時もショーツは履いている。

移店の人は、そこまでで終わることが多いけど、素人新人さんの場合は、って私が前のお店ではそうだったのだけれど、男性器の張型を使って、裏スジや亀頭周辺の愛撫の仕方、フェラチオの舌の使い方やバキュームの仕方、頭をグラインドしながら、両手で睾丸やアナル、そして陰茎自体を愛撫する方法を教わった。そして、射精に至る男性性器及び周辺の変化の特徴を細かく教えてもらい、口を使ったコンドームの装着方の練習で終了した。お店は完全S着なので、挿入前には必ずスキンを付ける。なので、そのタイミングも大事になる。

二つ目はクレーム研修だ。お客様のアンケートやメールで悪い評価が続くと、お店の指示で講習を受ける。これは結構厳しくて、接客の流れをすべてチャックされ、言葉遣いや会話まで直される。私は入店直後に一回受けた。どちらかと言えば、前の店では受身中心だったので、技が拙くて、マグロ系のお客様には不評だったと言うことだ。いまは、マグロ様ウェルカムだけど。

三つ目が今日私が受けた、希望講習だ。言葉通り、女の子から希望して受ける。今日はくぐり椅子と二輪車の講習だった。くぐり椅子はマニュアルのサービスには無いんだけど、遊び慣れた年配のお客様からの要望は多い。一応出来ない事はないんだけど、椅子を渡る時や、椅子下からボディー洗いをする時がまだまだぎこちないので、もっとスムーズに動けるようになりたかった。

二輪車は私はずっと「出来ない」で通そうと思っていたんだけど、今日一緒に受けた先輩に頼まれたので、受けた。二輪車で組んでいた子が辞めちゃったので、どうしてもって時に頼むねって感じだけど、目の前で、他の人の性器が結合している処を舐めたり、自分が挿入されているときに、お客さんに見られながら、クリトリスを女性に愛撫されたりするのは、やっぱり私には無理そうだなぁって思った。

後は定期講習なんだけど、これは講習っていうより、面談って感じで、女性講習員さんの前で一度は裸になる。薬系をやっていないかとか、注射痕がないかとか、大きな傷や打ち身とかの後が無いかとか、タトゥーを入れてないかとか、肌の張りも含めたボディーのチェックが主な内容だ。

注射痕があったりすると、即、退店だし、ボディーケアが悪いって言うか、身体が崩れていると、強制的に出勤停止になって、スポーツクラブやエステでケアして、お客さんに晒せる身体に戻らなければ、仕事に復帰は出来ない。この辺の厳しさで、お店は「格」を保っているし、それが評判に繋がって、繁盛店と認識される基になる。ネットとかで掲示されているお店の女の子の出勤予定が「長期休暇」の表示になっている場合は、このケースが一番多い。

って、本当はこの15日の日記は昨日アップするつもりだったのだけれど、書き上がらなくて、今日になってしまった。

秋晴れの空はとっても高くて、窓を全開にして風を入れてみる。こんな日に、こんな日記をアップしている自分がちょっと可笑しくて、ちょっと情け無かった。今日の私は、講義を受けてからまたお仕事へ行ゆく。さっき予約を確認したら、今日は、技が試せるお客さんがいるみたいだし。頑張ってくるね。

2003/10/13(月) sideA:お料理を作った休日。 10月13日
ザッっと言う風の音で目が覚める。今日は祭日で、久しぶりのお休みにだ。空は真っ黒い雲と青空のダンダラ模様で、凄い速さで流れている。お庭に出てみると、今日、移動する予定だったプランター植えの向日葵は、もう、なぎ倒されている。とってもお庭の世話が出来るような天気じゃなくて、玄関周りと、道に面した処を少しだけ手入れをして、強くなった雨脚に追われてお家に入った。

ニンニクを薄切りにして、オリーブオイルで炒める。焦げないように、香りだけ立てて、ニンニクをあげる。その油で、唐辛子を炒めて辛味を出す。一度油を外して、ベーコンを炒める。燻製の香りが少しするぐらいで、11分茹でたばかりの、ペンネを入れて、フライパンを振る。そこに香りを絡めたオリーブオイルを戻して、絡めてから、ケチャップを入れて、またフライパンを振る。弟とおばぁちゃん分はそこで別に盛って、最後に、ちょっとダバスコを振って出来上がり!父から直伝のペンネアラビアータだ。

洋食があまり得意じゃないおばちゃんも、この味は好きだ。好きって言うより、父の味として懐かしいのかも知れない。本当の父の味は、もっともっと辛味が強いのだけれど。

大盛りのスープとサラダと、チーズのオムレツも作って、4人は食卓につく。「おねぇちゃん、やっぱり美味しいよ。ちぃねちゃんが作るより」ちょっと妹が嫌な顔をする。「もっと食べたいな、おねぁちゃんの料理。」

ごめんね。

夕ご飯は、栗ご飯を炊いて、トン汁を作って、ちょっと高かったけどイワシを捌いてすり鉢で擂って、つみれを揚げた。揚げたてを、いつもホクホクしながら、食べていた事も思い出す。

久しぶりのつみれは、ちょっと擂りすぎていて、なんだか口ざわりが軽すぎたけど、味は少し、父に近づけたような気もした。

2003/10/12(日) sideA :やくそく / 帰ってゆくツバメ 
あのお店の軒先にあった巣には、もうツバメは居ない。今年は2番子まで育てて、帰って行った。巣造りが始まった時から、お店のおじさんは、ちっちゃな黒板にカラーチョークを使って、味のある絵を描いていて、卵にはちゃんと柄があり、生まれた雛の生え揃うまでの羽毛は、ちゃんと逆毛だった。そして一羽一羽に可愛い名前がついていた。

「今日卵が5個生まれました。」から始まった、ツバメのお知らせは、「今日無事に巣立ちました」で終わるのかと思ったら、「今年は2番子の雛が3羽生まれました!」で、また始まって、雨の多い夏は、なかなか雛が育たずに、脚立に乗って、雛に餌をあげているおじさんの姿も何度か見た。

弟が生まれた病院の帰り道、車中の父は思わず口笛を吹いていて、やはりとっても嬉しそうだった。二人女の子が続いて、私は男の子のように育てられた。自転車の特訓を受け、軟球のボールでキャッチボールをして、サイドスローでカーブまでは投げられる。そしてサーフィンを教わり、スキーを仕込まれた。勿論それは楽しい日々だったけれど、ピアノやバレー教室へ通うお友達が、そして妹がうらやましくはあった。

父の事業が行き詰まって来ていた頃、勿論私はちっとも気付いてはいなかったのだけれど、久しぶりにキャッチボールをした後の父の言葉が甦る。

「妹と弟、おねぇちゃんとして頼むな」
「あったりまえじゃんっ!」

自分の汗を拭ったタオルを、私に差し出した父は、あっと気付いて、悪い悪いと笑った。いいよいいよ、と受取った私は、久しぶりに父の香りを吸い込んで、軽く手足を拭いて、首に巻いた。そして、父と腕を組んで、お家に帰った。

私はその日の父と約束をしたと思っている。出来るだけはやってみよう。でも、おねぇちゃんとしてはとっくに失格しているのかも知れないけど。

2番子が旅立ったあと、南に帰るツバメの親子の絵が、「来年もまたね!」って言葉と一緒に10日ほど飾ってあった。その絵の子ツバメは、2羽だけだったのが、ちょっと悲しかった。



2003/10/11(土) side B: ありがとう!アソコ。
昨日は予定通りお仕事をして、ビジネスホテルに泊まったので、今日は通しで出勤してる。

以前の日記にサラッと書いた事があるんだけど、私の身体はお仕事でイク。イクようになった最初は、コントロール出来なくて、お仕事中に眠ってしまったり、帰りの階段で腰が砕けたり、今では笑い話にしかならない事がたびたびあった。でもそのおかげで、遊び慣れた太いお客様達に、面白がられてって言うか、珍しがられて指名は増え、そしてソープ嬢としてはそういうお客様に鍛えてもらった。少しずつ自分でコントロール出来るようになってきて、今は自分で「イク」のスイッチを押せる。

ある意味私は、インチキソープ嬢なのかも知れない。もちろん、マニュアル通りに、椅子、潜望鏡、マットをこなし、希望があればクグリ椅子だって出来る。でも私の一番の売りは、お客さんに合わせてイク事が出来る事だ。昂まるお客さんのペニスを感じて、私はスイッチを押す。子宮底が下がってきて、亀頭を包み込み、膣蠕動が始まって、お客さんは堪らずに放出する。そしてお客さんは言う「こんなの始めてだよ、驚いた。」そして、また指名してくれる。

少し怖くなった事がある。正直に言えば、私はイク事が好きだ。「楽しんで」と言うのとは少し違うのだけれど、イク事でお仕事自体の辛さが和らいではいる。素人処女な私は、当たり前だけどお客さんとしかイッタことが無い。

もし私がお仕事で無く、イクようになっていたら、きっと私はイク事にすごく執着した予感がある。イクを愛や恋だと錯覚したり、イク事を求めて、恋人を探したり、イクを無くしたくなくて、イカセテくれる男の人に執着する私が見える。

最初は自分の身体が嫌になった。大変な決断をして、泣きながら仕事を始めたはずの「自分の身体を犠牲にした可哀想な私」は、その仕事で、大きな快楽を得てしまう。仕事だと割り切って、「身体を時間貸しにしているソープ嬢」のはずなのに、自分自身がイッテしまって、こんなんじゃお客さんにもナメラレテしまう。

そんな頃、私は信頼する先輩に相談した。「どうしたらいんでしょう?」って。真顔で尋ねる私に、先輩は笑い出し、咳き込んでしまい、私は慌ててDバックから、コントレックスを出して彼女に渡した。

「うらやましいよ。気にする事ないじゃん。お客さん絶対喜んでるよ。イッちゃいやすいのは、少しずつ飼い慣らしてやればいいよ。」

「飼いならす」この言葉がすごく頭に入って来た。仕事では無くイクようになっていたら、私は「イク」に飼われていたかも知れない。イク自分を嫌っていたら、やはり「イク」に仕えるようになっていたかも知れない。

テクニック的な部分も少し先輩に教えてもらって、少しずつ私は飼いならしていった。今は近しい友人で、玩具で、そして趣味でもある。

昨日のお客さんはこう表現した。「先っぽに何か当たる感じがして、アレレと思っていると根元から絞られる感じがして、コントロールできなくなるんだよな、**ちゃんのアソコって。」

ありがとう、アソコ。ありがとう、イク身体。キミ達のおかげで私は稼げています。

18時からWが続いて2本入っていて、今日は上がりだ。頑張ろう。

2003/10/10(金) 映画館でフェラ
昨日は良く眠った。なんだか判らない夢をたくさん見た気はするのだけれど、目覚めた時に嫌な感じは残っていない。

今から3コマの外出に出る。今日みたいに少しズレタ時間に外出してもらえると、私は学生でいられる時間が長く取れるし、泊りじゃないので明日もお仕事が出来る。

この前、日記に貸切の事を書いた日に、御心配のメールを複数頂いた。これを書いちゃうと、同業の女の子やボーイさんには私のお店が判ってしまうかも知れないけど、御心配を頂くのも心苦しいので、今のお店の外出/貸切システムについて、少し書いてみる。

まずシステムはお店によって大きく違う。コマ数、総時間、泊りは可能か、遠隔地まで行けるか、お店に戻る必要があるか等、本当に様々だ。今のお店は貸切で外出できるのは3コマからだ。1コマが約2時間なので約6時間からお客さんと一緒に店以外で会うことが出来る。お客さんはお店に免許証を提出し、電話の掛かる住所と一致確認をし、そして、女の子の同意がなければ予約は出来ない。言い換えると、長い常連さんで、身元が確かな方以外と外出はしない。料金は、お店でお相手するときとまったく同じで、入浴料は丸々お店の利益になる。事前に大体のデートコースを決めて、お店に報告しておく。そしてお店は私に位置確認のGPS装置を持たせている。これはお客さんは知らないけど。リスクはゼロではない。でもヘッジはされている。今日みたいに泊りでない時は、ラス受けの終了時間がお店に戻る期限になる。時間までに必ずお店に戻るのが条件だ。それを過ぎるなら泊りになるから、明日の開店時間まで料金がかかるので、一挙に2倍ほどの料金に跳ね上がる。例え半分眠っていても。

実際には食事をして、軽く飲んで、ホテルって言うのが多いんだけれど、稀にはその時間ずっとホテルっていうのもある。それなら個室でも一緒のような気もするんだけど、それがお客さんの希望なら、私はその中でお仕事をする。流行っていないフィルムが上映される映画館で、ひとけの少ない席に座って、ペッティングからフェラチオまでしたこともある。さすがに挿入はしなかったけど。

この日記は電車の中で書いたんだけど、なんかやっぱりまとまりが無い。っていつもだけど。でももう、お客さんが来る時間なので、今日はここまで。
頑張って稼いできます。では。

2003/10/09(木) sideB:素人処女? 
花屋さんの店先には、小振りなコスモスの鉢植えが沢山置いてあって、ウインドウの中には、もうシクラメンが並んでいる。

昨日の日記を読み返してみると恥かしい。心の袋をひっくり返して、裏まで見せてしまった気がする。でも、なんだか少しスッとした。読んでくれたみんなに、ありがとう。そしてゴメン。

長女な私は、「イイコ」である事が好きだ。「おねぇちゃんなんだから」と言われて育って、我慢さえしていれば誉められた。妹弟の世話をして、誉めれるのが好きだった。昨日PCをオフにして、ベットに入って少し泣いた。それは悲しいって言うより、始めて自分の心の裏を言葉にして、その事が怖かった。怖くて怖くて、涙が出た。でも、もう、そろそろ、認めようとも思う。

今まで私は仕事以外でセックスをしたことが無い。性に興味が無かったと言えば嘘になるし、身体がセックスを憶えてからは、好きな人、そして私を好きな人としてみたいとも思う。風俗以外で経験の無いお客さんの事を、「素人童貞」って言うんだけど、そうすると私は「素人処女」って事になる。正直に言えば、処女を辞めた日まで、ほっぺた以外のキスさえ知らなかった。

私がソープ嬢をやっていけているのは、「イイコ」である事が好きな私だからかも知れない。お客様の前では、「イイソープ嬢」でいようとするし、それはもう習慣みたいなものだ。

イイコでいたかった私は、今でもイイコでいるために今の暮らしをしている。でも私がイイコで無いことは私が一番知ってもいる。

お家のコスモスはみんな種から育てた。ケイトウもそうだし、去年堀上げておいたシクラメンも、少しずつお水をあげているので、だいぶ葉が揃って、少し花芽ものぞいている。来週の月曜日は、久しぶりの完全なお休みなので、そろそろチューリップの球根を植えようと思っている。咲いたお花を買ってきて、植えてしまえばキレイだけれど、種から育てる幸せを、忘れないようにはしたい。

2003/10/08(水) 処女はビデオカメラの前 で無くしました。
日記の日付が空いてしまった。書きたかった事はあったけど、書けなかった。元気でいようと思うのだけれど、気持が沈んでいる。私達に会えなかった母の心が私に流れ込んでくる。

父が死んだ後、母はよく一人でアルバムを見ていた。その頃は気が付かなかったのだけれど、母は毎日アルバムの中に遊びに行って、少しづつ帰って来なくなった。

今日開いたアルバムのページには、まだ詰襟で坊主頭の父がいて、父が育った遠い街の風景がある。「八景水谷」と書いて「はけみや」と読むその街は、大きな火山のある麓の県庁所在地の市にあった。そこで父は生まれ育ち、家庭的には恵まれない思春期を過ごした。

少し斜に構えて笑っている父。肩を組んでいる友達は、前歯が一本抜けていて、それでも大きな口を開いて笑っている。始めてこの写真を見た母に、父はどんな話をしたのだろう。アルバムを見ながら、まだ出会わない頃の話を、きっとニコニコ聞いていた。ちょっと照れながら、ちょっとはにかみながら、父はきっと話した。そんな柔らかな時間を過ごした二人のおかげで、今、私はここにいる。

そんなお話も、そんな時間も、もう増えないって判ってしまった時に、母はアルバムの中に行ってしまった。

去年、少し戻って来てくれて、この家で過ごした。私は女子高生だったけどもうソープ嬢で、、毎日帰りは夜中だったし、土日は殆んど出勤していた。せっかく戻って来てくれた母とゆっくり過ごす時間も持てず、母のそんな心を思いやるには、祖母は強すぎたし、弟と妹はまだ幼かった。そして、母はまた戻っていってしまった。

時々思う事がある。もし私が一緒に戦おうと母を誘っていたら、お家は無くなっていたかも知れないけど、母は居てくれたんじゃないかとも思う。私は市内の短大に通い、本当に居酒屋でバイトをしていて、母もお弁当屋さんかなんかでパートをしていて、暮らしていたような気もする。

明け方の夢で、私は母に、妹に、弟に汚い言葉を投げていた。どんなに自分が頑張って、どんなに自分が犠牲になって、暮らしを支えているのかを怒鳴っていた。すごい顔で、すごい声で怒鳴っていた。

今の暮らしを選んだのは、本当は私の我侭だ。お金の掛かる大学を諦められず、想い出のいっぱいあるお家に居たくて、一番楽で自分を高く売れる今の仕事を選んだ。その仕事で得られる収入が、結果としてみんなの暮らしも支えられる金額だったいう事を、ほんとうは私は知っている。

始めてセックスしたのは、アダルトビデオの仕事だった。そのいきさつは、途中まで書こうとして止まっているけど、私はカメラの前で処女じゃなくなった。私の身体を商品として最初に得たのはそのお金だった。それは高校生の私が、コンビニならシフトに入って一生懸命働いても、一年近くかかる金額だったし、私はきっと、それに味をしめた。ほんとうは・・・・・・・・。

ごめん。今日はもう寝ます。明日、今日の日記は消すかも。
朝起きたら、ちょっとはマシな私になっていますように。
こんなもの読ませてごめん。ありがとう。おやすみなさい。

2003/10/04(土) sideA:お見舞いに行った。
弟と手をつないで歩く。道の両側には稲穂が首を垂れていて、少し花弁がチリチリになってしまった曼珠沙華の赤い花が並んでいる。妹は少し前を歩いていて、短いスカートから伸びている足は、もう女の形になっていて、うなじの後れ毛が、少し淡くなった陽射しに耀いていた。

病院は少し高台の森の中にある。広い庭を持っていて、芝生が美しくホテルのようでもあるのだけれど、少し高めのフェンスの先は、外来者を阻むための外向きの反りと、内向きの反りがあることで、ここが病院であることが判る。

今日は会えなかった。

下り坂なのだけれど帰りの道は、行きより少し辛い。私と妹は弟に話しかけるのだけれど、ほとんど答えは無い。帰りに寄ろうねって言っていたファミレスも通り過ぎて、バスに乗る。

「おねぇちゃん、今日バイト休めない?」妹が言う。「ごめんね、土曜だからちょっと無理なんだ。」「そうか・・・遅い?」「深夜までだから泊まりになると思う」

お家に戻っても空気が重い。膝が痛いと言っていた、おばぁちゃんは、今年になって、要介護認定を受け、今日はデイケアハウスへ行っている。

母の代わりには、やはりなれない。父の代わりもなれない。せめて妹と弟が好きな学校ヘ行き、卒業するまでは私が支えるしかないとは思う。

食事の支度を始める妹の手つきは、ずいぶん慣れてきた。部屋から出て来た弟が庭に水を撒いている音も聞こえる。メールを開くと何度も断っているのに、高校時代の友達から合コンの誘いのメールがまた来ていた。

今日はお昼を休ませてもらって、19時から貸切に出る。3コマだけだけど、終わりは1時になるので、いつもの安いビジネスホテルを取っている。今日はどんな女を望まれるのかは、だいたい判るので、オークションで1500円で買ったJ&Rのワンピースに、500円で買ったP&Dのジャケットをリュックに入れる。ヒールはお店のロッカーに置いているし。

何時ものように、ジーンズをはいて居酒屋でバイトしているはずの私は家を出る。行ってきます。今日も上手く私を売れますように。

2003/10/03(金) sideA:好きですか?
はじけてしまった猫じゃらしは枯れはじめて、金木犀の香りが風に乗る。肩の開いたお気に入りの七分袖のニットでは、もう少し寒い。結んだ髪をほどいてみると、思ったより暖かくて、でもローションと泡の匂いが、ほんの一時間前までいた個室の景色を連れてくる。

ぽつぽつ歩く駅から家までの道で私は「私」に戻ろうとする。金額に見合う快感をお客様に受取ってもらうために、私は仕事をする。そこに「私」はいらない。「私」は、ただただ、じゃまなだけだ。
その空間と時間は、お客様のためだけにある。私は甘えッ子な妹だったり、強気な女王様だったり、従順な女であったり、淫乱な絵に描いたような娼婦であったりする。共通なのは、この身体だけだ。

いつもの場所にいるいつもの猫達や、同じ時間なら必ず逢う顔見知りの散歩の途中の犬や、今が盛りの庭のコスモスや、茶色になって夜なのに小さな花が咲いている朝顔の垣根を見ながら私は歩く。見慣れた窓に灯りがあって、見慣れた道をぽつぽつ歩く。

母はまた心を閉ざして、前以上に心を閉ざしてしまって今は病院にいる。私は父の残した家で暮らしたくて今の仕事を始めた。でも、母は父のいないこの家が受け入れられなくて、また心を閉ざした。

「お帰り」「お帰りなさい」おばちゃんと妹が「バイト帰りの私」を迎えてくれる。弟はお風呂に入っていた。「今日は柳カレイの干物だよ」半額シールの貼られた、ラップを外しながらおばちゃんが言う。妹は御味噌汁を温めなおしてくれる。

まだ「私」になれて居なかった私は、「西側のお庭に少しお水をあげとくね」と言って外へ出た。花がはじけ始めたエリカの枝に、シッポを上げたカマキリがいた。

こんな私でも好きですか?

カマキリに尋ねてみたって、答えてくれるはずはないのだけれど。

2003/10/02(木) sideB:山本直樹のマンガのように/一年前の今日
今日の月は少し赤い。あの日見た月は、白かった。

去年の10月2日は水曜日で、2学期制だった私の高校は、試験明けの休みだった。悔しいほど蒼く高い空を見上げながら、富士五湖道路を北に向かっていた。お天気にも景色にも不似合いな、ファッツ・ドミノのブルースがカーステから流れる車は屋根が無くて、しかも赤い。お客さんとしては最高なんだけど、彼女には絶対なれない。その日は貸切の仕事だった。

私を泊まりで丸一日貸し切ると、新車のK-CARが買える金額になる。3分の1近くはお店の収入で、部屋は他の子が使って、私はお水一滴使わないから丸儲けだ。決して薦めはしないけど、貸切をこなすとお店の受けはいい。勿論リスクはある。でも受験を控えて集中的に稼ぎたかったから、貸切は出来るだけ受けていた。そのお客さんとは3度目の貸切だった。

7月に部屋での事故があって、さすがにひと月はお客さんと二人になるだけで怯えがあった。注意はしていたけれど、接客にも出てしまったようで、それで離れていった常連さんもいる。貸切にも出れなくて、8―9月は収入が激減した。この日は事故の後の最初の貸切だった。

インターチェンジを降りてすぐ、私達はブックオフへ寄った。周りにはスタンド以外には店も無いのに何故かその店はあった。「30分ね」お客さんはそう言うと、一人で本棚の間を歩いていった。「30分」。お客さんが買った私の30分は金額にすれば、ユニクロのジーンズなら5本は買える。

お客さんが買ったのは塔山森&森山塔の旧作、って同じ作家だ。山本直樹と言った方が判り易いけど。そして内山亜紀やみやのんとくれば趣味は明白だ。今まで「そうかな?」とは思っていたけど、今日は隠すことも無く全開だ。私は前から探していた、清原なつのの花図鑑が全巻買えて、ちょっと嬉しかった。「こういう田舎の店が穴場なんだよ、古本は。」確かに秋葉やまんだらけならプレミアムが付きそうな本が100円だった。

車の幅ギリギリの道を少し走ると景色が広がって、その旅館はあった。離れの部屋には御約束のように露天風呂が付いていて、その向こうには清流が流れている。女将の挨拶が終わると、お客さんは早速鍵をかける。「お願いがあるんだけど。」今までの外出では、極普通のお仕事だった。

「毛、剃っちゃダメだろうから、少し短くして染めてもらえない?」一瞬迷ったけど、私は受けた。どうせ今日は毛先が丸くなるぐらいお仕事はするだろうし。

薄い茶色で短くなった毛は、確かに生え始めの少女のようにも見える。それを慈しむようにお客さんは頬ずりをする。指の先で芯を開きながら舌を這わせる。私の髪は三つ編みで、眼鏡もかけている。

眉を太く書き直して、ウイッグを付ける。オカッパはさすがに無かったようで、長めのボブだ。制服は本物で、ネームまで入っている。ルーズでは無くて、折り返しのついた靴下で、丁寧にローファーはコードバンだ。

「顔撮らせてくれたら別に1本あげるよ。」「顔が無い方が、きっと売れるよ。こんなぶさいく」「売らないよ、コレクション」「コレクションならマニアックに顔なし。色んな顔が想像できるじゃん」お客さんはダメ元で色々言う。私はNOとは言わない。YESとも絶対言わないのだけれど。

定番過ぎて笑っちゃったブルマーやスクール水着も、どこで売っているのか、私も着れるサイズの園児服や、ハイジみたいなワンピースも全部身につけた。裸から身に付け、そして少しづつ肌を晒す。ポーズを取ってデジカメで撮る。裸のままのお客さんは、何処がツボなのか反応が判るので面白い。そして波打つほどエレクトすると、その衣装のままの私に入って来る。食事の時間も惜しんで、お客さんは私にお仕事をさせる。浴衣も一重も袷も着た。

殆んどぶっ通しで、3度目のお仕事をして、さすがにゼリーを入れても渇いてくる。お客さんもエレクトしなくなって来て、やっとひと休みになった。露天風呂に入ってシャンパンを開けて乾杯する。何に対してのかは判らないけれど。快晴だった空に、高い鰯雲が出ているようで、月を横切る時だけ姿が判る。淡すぎる雲に、月が白い。

それから夜中までは、さっき買ったマンガのコマ通りの体位と、ストーリーを真似てまた何度もお仕事をした。衣装も何度も着替えた。

朝、私は約束通り、デジカメをチェックさせてもらって、顔が判るカットは全部消去した。小さな液晶の中で、その時々の私は、感じていたり、泣き顔だったり、媚びた顔だったり、そして少し笑っていたりしたけど、Deleteキーを押すと、無かった事になっていった。サヨナラ、一瞬だけいた私。


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