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最新の絵日記ダイジェスト
2006/06/04 side A: ひさしぶり
2005/09/17 side A : ひまわり
2005/09/16 side A : 空 
2005/09/15 side A : そして
2005/05/23 side A : レースフラワー

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2004/03/31(水) side A:桜
突然の雨に桜は散る。

さっきまで、枝で揺れて、
猫の爪のような月を背負っていた
淡い色の花びら達が
地に伏して、終わりのときを迎える。

人々は今日も宴に忙しく
雨を避けて、摩天楼に集う。

私は少し雨に濡れて
少し寒い。

2004/03/30(火) side A:THE BAR 2
違うお客さんと外出した。
昨日と同じBARに誘われて
ちょっと困惑したのだけれど
マスターは寡黙なバーテンダーだった。

このお店で私は、XYZのロンリコ151フロートを憶えた。

昨日も、今日も
お客さんが軽く紹介する私に
「始めまして」と挨拶する。

そして、お客さんがお手洗いに立った時
一言だけ
「仕事も大変だね」
と優しい笑顔をくれた。

ごめん。
言えないけど、キャバ嬢じゃないんだよワタシ。

2004/03/29(月) side A:THE BAR
桜を見に行った。
と言っても貸切なんだけど。

桜の名前のカクテル。
キレイで美味しかった。

姿だけだけど、いかがですか

2004/03/28(日) A:「狂気」=「THE DARK SIDE OF THE MOON」
父の部屋は、今もほとんどそのままで、ステレオには恐らく最期の日に聞いていた、アルバムがターンテーブルに載っている。

私はそのアルバムを何度も聞いた。

立てかけたままのジャケットは、三角形に当たった光が、虹に分かれる印象的なデザインだ。

そのジャケットには邦題では「狂気」と書いてあり、その原題が「THE DARK SIDE OF THE MOON」と書いてある。

私は今日、その意味が、はじめて少し判ったような気がした。

2004/03/27(土) side B:男性は男性の性を知らない。あるいは 初めて二輪車を受けた日
新学期が近づいてくる。ソープの仕事中心に過ごす春休みの暮らしももう少しだ。

男の人達自身は、男の生理を知っていると思っているのだけれど、ゲイやバイの人以外の殆んどの人は、実物のエレクトした性器を、自分の物しか見たことがない。せいぜいストリップの生板か、後はビデオで見るしか機会が無い。どんな風に女の子を抱いているのか、どんな風に挿入して、どんな風に腰を使い、どんな風に果てるのかを知らないし見たことがない。

性器の形や大きさの違いには、最初の頃は驚いた。エレクトする前は、それ程違いは無い。怒張してくるとすべてに個性が出てくる。色・形、そして刺激を与えて反応の強い部位など、同じものは二つと無いといっても過言ではない。

性的な嗜好や、交わり方の好みは、私の場合はお仕事なので、普通のセックスとは違うだろうとは思うのだけれど、それは、本当に人それぞれ千差万別で、恐らく同好のカテゴリー内なら想像ぐらいは出来るかも知れないけれど、カテゴリーが違うと、なぜそれが、性的な興奮に繋がるのかさえ、理解できないようなことも多い気がする。ネットが一般化してからは、アンダーグランドな掲示板とかで、その辺の趣味の情報交換も行われてはいるけれど、ほんとのホントの処は、なぜかあまり書き込まれていない気がする。

昨日初めて、二輪車を受けてみた。そして、待ってましたとおねぇさんは今日も二輪車希望のお客さんを呼んだ。二日間私は、いつもより一本多く仕事をしてきた。今まで、自分以外の女の子のヴァギナの実物を実際に見る機会は講習以外には無かったし実際の性交を目の前で見ることは無かった。

講習は受けていたし、事前に指導も受けて、流れの打ち合わせも綿密にした。昨日の初めての二輪車の時、椅子の両側から壷洗いするとき、ちょっとよろけて、お客さんの首につかまってしまって、少し笑われた。それを除けば、マットでの入れ替わりも上手く行ったし、お客さんは一本分のサービス料に近いチップを二人ともくれたから、満足はしてもらえたのだと思う。昨日のお客さんは、明日おねぇさんの姫予約でもう一度来るし。

目の前のおねぇさんのヴァギナにペニスが挿入され、ピストン運動で少しづつ高まり、外陰部が充血して体がポッと紅を差して演技ではなくイクのを見た。事前の打ち合わせ通りに、お客さんとおねぇさんが高まっていくのに合わせて、クリトリスを舐め上げ、結合しているペニスと陰唇を舌で愛撫したり、騎乗位で腰を振るおねぇさんの後ろから、クリトリスを愛撫し、お客さんに見せるために、舌を絡ませてキスもした。その時に私のヴァギナをお客さんの顔に向けて、舐めさせたりもした。でも、私の方が挿入されているときに、おねぇさんに触られるのには、慣れることはできないだろうと思ってはいる。

二輪車も一つの男の人の性的な嗜好だと思う。同時に女の子が二人居るほうが、ビジュアル的にも楽しめるだろうし、ヴァギナと口は2個あって、手と足と胸はふた組づつあるから、色々なバリエーションが増えて、それをフルに楽しめる。同時に様々な刺激を受けることができるし、これを好むお客さんの気持ちも判るような気はする。

でも、自分とそのおねぇさん以外の女の子がどんな風に交わりイクのかは知らない。そして恋愛中のカップルがどんな風に性的な行為をするのかは、判らない。

少なくても私は、数百人の男の人のエレクトしたペニスを知っていて、それぞれの男の人が、私に向けた性的な嗜好を知っていて、そのほとんどの人の射精する瞬間を知っている。私の膣の中で変化する瞬間や、口の中で伸び上がって蠕動する瞬間や、柔らかな刺激では感じられなくなるほど粘膜が硬貨してしまって、手でしか感じられないペニスも知っている。どんなに指定通りの刺激をしても硬くならないペニスも知っている。そして、個室の中ではあるのだけれど、目の前で人が交わるのを見ることもできた。

でも、明日始めてお相手するお客さんは、誰にも似ていないかも知れないし、私がまだ知らない性的な嗜好を持っているかも知れない。「男は」って私に性的な事を話すお客さんたちは、自分の嗜好や、その嗜好の背景を話していて、男を代表している訳ではないなぁって思う。

一昨日から、何となく、性って何だろうって考えた。勿論結論は無いし、判った事は、「何にも判らない」って事だけだった。

2004/03/26(金) side A:車内の風景。そして
アルコールの香りと、髪や服に染み付いた煙草の香りを詰め込んで、金曜日の深夜の電車は走る。今から二人で入るベッドを前提に、言葉だけの駆け引きがあったり、温度に差があるデート帰りの、最後の足掻きの口説き文句だったり、酔眼で語る人生を、後ろを向いて舌を出す軽い嘲笑なんかを混ぜこぜにして、電車は人を乗せ、人を吐き出して走り続ける。毎週この電車だけは、いつもの電車と何かが違う。

高校生の頃、この電車が嫌でたまらなかった。疲れ切って乗るこの電車は、猥雑な感じの中に、休日前の妙な明るさと、陽気さがあって、金曜から始まる、ソープ嬢としての比率の高い三日間の幕開けで、乱れた衣服と、酔眼の並ぶ風景は、気持ちをホンとに逆撫でしていた。

この電車で、いつも私は参考書を開いていて、その事で何度も絡まれた。幾度かは、露骨に性的なからかいを受けたし、その頃の私は、それを跳ね返すだけの心の力はまだ無かった。

制服を着て家のある街からソープのあるこの街へ通い、駅ビルで着替える。帰りは私服だったけど、個室の灯りの中なら、年はごまかせても、電車の照明の中での私は、17歳の女子高校生だった。終電に乗って、参考書を開くその姿が目だっていたのは今なら判る。でもその時はただただ、一所懸命だった。

今の私は、稀に酔客に絡まれる事はあっても、この電車に溶け込んでいる。もうすぐ処女じゃ無くなって3年が経つし、ソープの仕事も2年半を超えた。身長は4cm伸び、カラダも女になった。

駅から家へ向かう道には、何本も木蓮の花が星空に手を伸ばすように咲いていて、桜も花を付け始めていた。ぼっと歩いていると、父のビデオのシーンが浮かんできてしまう。

今日は眠ろう。とにかく眠ろう。おやすみなさい。



2004/03/25(木) side B:父親の性交シーンを見るということ
雨が上がった後、ポピーの花びらはみんな落ちてしまっていた。週の初めの強い風で、折れてしまった花を、私は靴箱の上の一輪挿しに飾っていて、それだけが残っている。久しぶりに包まれる春の日差しに、新しい花芽は伸びてきていて、明日には殻をポンと落として、新しい花が咲いている。

祖母がデイケア施設へ出かけ、妹と弟はそれぞれの友達と遊びに出かけた後、先週、荷物の整理をしていて見つけた、封をされた紙袋に入っていた、古い8ミリビデオを再生してみた。「恐らく」の予感は当たっていて、そのビデオには知らない女性と交わる父の姿があった。

父の自殺は、ある程度計画的で、ある程度発作的だったと思う。ほとんど私一人で整理してきた父の荷物は、明らかに母の目に触れる事をはばかって、一部のページが裂かれて欠けている手帳や、古い箱に、新しくテープで封がされた後があったり、他の物が入っていた跡が認められる袋もあったりする。すべてを捨てずに残していたのは、自分の生きてきた人生を、跡形無しに消してしまうのに未練があったのか、整理して、すべて捨てる前に自殺してしまったのかは今のところ私には判らない。残して伝えたかったのが、誰に対してなのかも判らないし。

そのビデオに映っている父は、まだ30代だと見える。幼稚園の入園式のビデオが、私の姿が残っている最初のビデオなので、その前後のようにも見える。厳重に封がされていて、外からは何か判らないようになっていたけど、それはそれだけで、中に怪しいものが入っている事を主張しているようなものだった。きっとこの袋は、絶対捨てたかったんだけれど、見つけることが出来なかったんだと思うし、ひょっとすると、これが見つからなくって、何日か自殺を思いとどまったのかもしれない。

「どこを押すんだろう?」という声と、ピントが合っていなくて、ボーっとした白い画面からそのビデオは始まっている。ビデオカメラは私の卒園式のためではなくて、このセックスを撮影するために買われたのかも知れないなぁって思うとちょっと寂しい。女の人はどうすればそんなに重力に逆らえるのかってくらい、前髪を立てていて、今ならちょっと見られないべったりした化粧をしている。肩から、何センチも突き出した、大きなパット入りで金のモールがついたスーツを着ていて、首にへんなスカーフを、今なら戦隊ヒーロー以外は結ばない形に結んでいて、自信タップリな表情で笑っているけど、カメラはシワや骨ばってきている首の筋や、毛穴が開いた指の甲をしっかり解像していて、なんか哀れな感じもする。そしてそんな人とのセックスを撮影している父も悲しい。

その人は赤坂に勤める人で、父とは2−3年来の店での馴染みで、そういう関係になってからも半年は経っていて、でも関係は3―4回で、きょうは合意の上でビデオを撮ることになっていることが、会話から判る。窓から見える風景から、部屋が赤坂プリンスなのも分かる。

くねくねと媚態を作って、スカーフを外し、上着を脱ぎ、、ブラウスを脱いで下着になる。足を開いてショーツのまたの部分を指でつまんで、少しズラシテ性器を見せる。気を使ってメンテはしている身体だと思うけど、たぶん40は過ぎている。でも会話だと、父より年下らしい。10歳くらい嘘をついていて、それに気付かない父が可笑しい。ブラを外すと乳輪が大きめの乳首が平行より下を向いたCカップくらいの乳房が現れて、近づいてきたその乳房に、カメラの側から父手が伸びて、触る。

シャワーシーンがあり、結合しながらその部分を撮ったシーンがかなり長い時間あり、ベッドで様々に体位を変えて交じり合い、カメラのレンズを意識して、結合部をその方向にひねるので、何度か両方の、「痛い!」って言葉が入っていて、最後はカメラのことも忘れたように激しく動いて、ほぼ同時に絶頂を迎えたように見えた。

少し間があって、ベッドから起き上がった父が、カメラに向かって歩いてきて、最後のシーンは、射精を終わった独特の萎え方の、ペニスのアップだった。時間は約1時間半。

私は裏庭で、ビデオを燃やした。嫌な臭いが鼻を突いて、でもケースから出したテープはあっという間に燃え上がり、灰にもならず燃え尽きていった。笑っちゃうけど、私や妹や弟ばかりが主役で映っているビデオばっかりの中で、唯一、父が主役で、たくさん映っていたビデオはこの世から消えた。

これは無いほうがいいよね、これは。

父の性的なものを感じさせる記録は今までにもあった。でもそれは文字であったし、家族ができる前のことだった。私が持っていようかとも思ったのだけれど、もし私に何かあったとき、弟や妹にこれは絶対残せないし。

馬鹿だね、父さん。

ビデオにその頃父が何を思っていたのかに繋がるものは無い。ただただ性を貪る一人の「男」しか、居はしなかった。今の仕事をしているから、私は、少し理解は出来る。でも、他の家族は理解できないし、理解できるようになって欲しくもない。

馬鹿だね、父さん。

もう一度、今度は声に出して言ってから、私は仕事へ行く準備をしに部屋へ戻った。

2004/03/24(水) side:A’:淡々と性について書くと言うこと
昨日この日記を読んでくださっている恐らく女性の方から、一言メッセージに「淡々としているのが、すごい怖かった。」との言葉を頂いた。勿論それは、この日記を読んでくださった率直な感想なので、ありがたいのだけど、ある意味私のソープ嬢としての根幹に繋がる問いのような気がした。

DCの頃、泊りで眠れたことは無かった。深夜まで快感を貪ってから眠り込むお客さんの横で、私は、好きだった歌を頭の中でずっと歌っていたり、空で覚えている宮沢賢治の「春と修羅」の中にある詩を、頭の中で暗誦したり、少し慣れてからは、そのときは諦めかけていた、受験のための英単語の記憶用の冊子や日本史の年表一覧を、お客さんに背を向けて開いていたりした。でも、今は眠る。

半年前頃から、性と快楽を貪るのでも、デート希望の俗に言う「勘違いなお客さん」予備軍でも無いお客さんとの貸し借り・外出が、少しづつ増えて来ている。昨日の日記に書いた方のように、私と居ることや、過ごす時間を楽しんで下さって、そんな私を「人」として慈しんでくれるのが伝わる事がある。

でも本当は、これは辛い。

仕事をしている時、心は閉じている。スイッチと言うと大げさすぎるけど、私が出てしまうのはお客さんが快楽を得るのには邪魔になるし、私のままで、初めて会う人のペニスをヴァギナで受け止め、そして快楽に上り詰めて、より大きな快楽をお客さんに返すには、私はあまりに弱い。

慈しまれていると感じてしまうと、私の心は開きかけてしまって、性的な交渉にためらいが出てしまうし、帰り道が辛い。私は、セックスドールで居たいと思っていた。ソープの外出は、お客さんを選ぶことができる。勿論打算が前提にあるのは否定しないけど、DCの時と違って、少し心が介在する。

この日記を読み返してみると、性的なことを書いている日は、確かに文体が硬くて、淡々としている印象がある。

結論も、見えているものもまだ無いんだけど、今日その事に気付いた、ううん、その事も見つめていこうと思ったので、書いておくことにした。

今日はお休みなさい。変な日記ですみません。

2004/03/22(月) side A:身代わり あるいは つかのまの・・
カーテンの間から覗いてみると、ガラス窓はくもっていて、冷えた空気がバスロープ一枚の肌を撫ぜる。思わずブルっと体を震わせて、肩をすぼめる。お客さんはまだ眠っている。

今日のお客さんはかなり高齢で、貸切は3度目だった。今日は、ホテルではなく、UNIONへ寄って、食材を仕入れ、海辺の瀟洒な別荘として使っていると言うマンションで、私が料理を作って少し遅い夕食にした。そのお客さんには今は家族は居なくて、私達は仲のいい父娘のように腕を組んで買い物をし、妻のようにエプロンをつけてお料理をし、お客さんは「新撰組」を見ながら、ソファーでビールを飲んでいる。

小鉢で、軽い肴から順に出していくと、「やるじゃないか!」と嬉しそうに笑って、箸を付けて「美味いじゃないか!」と大げさに驚く。
食事が終わって、片づけをしながら、そしてソファーの横に座って、前にも聞いた成功談を、おかぁさんのようにうなずきながら聞く。そして、お風呂でだけソープ嬢に戻って、ベッドの上では、若かった頃の恋人のように交わる。激しく。

この前もそうだったのだけれど、一度イッタ後は、性的な誘いをかけてみても、頭を撫でてくれて、軽いキスを返すだけだった。

夜中にお客さんは泣いていた。眠ったまま静かに泣いていた。額に入った家族写真の奥さんと娘さんは、もう20年以上前に、事故で亡くなったと聞いた。

起こさないように、お味噌汁を作り、玉子焼きを巻く。鯵の干物も2枚焼く。出汁は聞いていた昆布とかつおのあわせで、味噌は麦味噌、具はお豆腐だ。少し音を立てて浅葱を小さく刻むまな板の音に、ベッドルームから、「おはよう」と声が掛かる。

外は雨が降っていて、海は暗い。

2004/03/21(日) side:A お墓参り
背をピンと伸ばして、おばぁちゃんは歩く。昨日から身体の調子がいいみたいで、お供えのボタモチの入った、風呂敷包みも胸に抱いている。この何ヶ月か、ほとんどは夜だけど、時々言うことがオカシクなって、そのあと本人がすごく落ち込む。普通の生活はおくれている。でも何時までおくれるかはわからないとお医者様は言う。

夜中に、紋のついた和服に着替えて、母の名前で私を呼ぶ。
「車を廻しておくれ。お店に行くから」
私は言葉を失う。お店は私が生まれる前にはとうに無くて、写真でしか私は知らない。
「**先生がいらっしゃるんだよ。私がご挨拶しなくちゃ」

少し目が釣り上がって、早口でしゃべるおばぁちゃんはいつもと違う人になる。最初は驚いて、「何、言ってるの?」って口答えしたりしていたけど、今は、ダイアルを押さずに電話でタクシーを呼び、待っている間に、少しづつ話をする。
「今日は、お店はどのくらいお客さんがあるの?」
「板さん、今、何人だっけ?」
「今日、おじいちゃんは何処に出張なの?」
「ここからお店まで、どのくらい時間がかかるかなぁ?」

無いお店にお客さんは来ない。もちろん板さんは居ない。おじいちゃんはもう何年も前に死んだ。湘南から東京のお店のあった場所まではあまりに遠い。

ひとつづつ、古い記憶と今の暮らしを引き合わせ、組み立てて、おばぁちゃんは少しづつ落ちついていく。そして「どうしちゃったんだろうねぇ私」って涙ぐむ。紋服を脱ぎ、敬老の日に私たち3人から贈った、ウサギの柄のネルのパジャマに着替える足は、ほんとうに細い。


父の遺骨は母方のお墓に居候している。と言っても、そのお墓を守る血筋も、もう私たちしかいない。お線香をあげて、4人で手を合わせる。昨日の雨が、小さな水溜りを残している墓地に続く坂には、淡い桜の花が少しだけ咲いていた。

途中の駅で私は電車を降りて、4人掛けの椅子に座る3人が私に手を振ってくれる。居酒屋にバイトに行って先輩の家に泊ることになっている私に、おばちゃんは酔っ払いに気を付けるように、そして、男の人の誘いにも、くれぐれも気をつけるように念を押す。

今日は泊りの貸切だ。

頑張ってね。私も頑張ってみるから。

2004/03/20(土) side A:その朝 
暗い空から落ちてくる冷たく細い雨が、ほころびかけた桜のつぼみを濡らしている。こんな日は、あの時のことを思い出す。

目が覚めた時、雨の音がしていた。学校へ自転車で行けない日は、少し早く家を出なくちゃいけないので、急いでパジャマのままで、顔を洗って歯を磨き、母が作ってくれたパンとサラダとサニーサイドアップの朝ごはんを食べて、おうちを出ようとしたとき、起きてきた父と廊下でぶつかった。ひゃぁ、って少し出っ張っていたおなかに跳ね返されて、よろける私を抱きとめて、父はもう一度ハグってした。「なんだよ?」、ってちょっと厳しい目をして見る私に、「ほんと大きくなったなぁ」って言って、頭を二度、ぽんぽんと撫でて、「行っておいで」と笑う顔に、私は首をひねりながら、カバンを持って玄関を開けて、傘をさして表に出る。ドアの開く気配がして、振り向くと手を振っている父がいて、
角を曲がるまで手を振っていた。一度傘を閉じて、私も思い切り両手で手を振った。雲から銀の糸のようにつながって、落ちてくる雨がとても綺麗に見えた。なんだろうねぇ、って頭をひねりながら、でもクスっと笑って、ワンって挨拶をしてくれる、角のお家の茶色い犬のチロくんにも挨拶をかえしてから、2歩だけスキップをして学校へ向かった。それが、生きている父を見た最後だった。

かかってきた電話を受けた母は、その場で昏倒してしまって、代わって電話を取った祖母は話を聞いている間に、何度も受話器を取り落とし、電話の相手に何度も詫びながら、それでも最後まで話を聞いた。聞き返す祖母の言葉で、何が起こったのかを私は理解した。食卓には、何時ものように6人分の食事の用意がしてあって、父の席には一回り大きなご飯茶碗が伏せてあって、それは母の茶碗の柄と同じだった。弟のお茶碗は、戦隊ヒーローの柄で、妹のお茶碗はかわいいキャラクターがついていて、私とおばぁちゃんは、頂き物でおそろいの、宵待ち草の淡い絵の入った薄手の磁器だった。

崩れ落ちて泣きじゃくる母に、妹と弟もつられて泣き出して、祖母と私は短く話をして、必要なものを揃えた。タクシーに電話をして、病院へ向かう道の景色は何も見えなくて、ヘッドライトに浮き出すアスファルトの色と、後ろへ後ろへと飛んでゆく、センターラインの白っぽい線だけを見つめていた。

葬儀が終わって、父のお茶碗は何日か仏壇に供えられたけど、母のお茶碗はずっと食器棚から出ることは無くて、4人になった食卓には、祖母が作ってくれた食事が並んでいた。席は今まで通りで、座る人のいない席は、なんだかとってもそこだけ光があたってさえいないようで、涙ぐんでしまう3人を、私は叱って、励まして、いつか、母の味を、父の味をまねて私が作る日が多くなっていった。

その日から、半年後には私はカラダを売っていた。一年経たないうちにソープで仕事をするようになって、そして今日がある。

今のご飯茶碗は、みんなお揃いだ。デキチャッタ婚だけど、私は初めて友人の結婚式に出席して、引き出物代わりに入っていたギフトカードで、妹と二人でこのお茶碗を選んだ。5客揃いの一客だけは、まだ一度も使っていない。そして、父のお茶碗はもうこのお家には無い。



2004/03/19(金) side A:言葉のいなかった1週間。そして御礼
日記を削除されて、ほんとうに落ち込んだ。考えてみれば、その日、その日の日記の題名は扇情的だったし、楽天市場の、楽しいお買い物日記を読もうと思ってブラウザを開く、漢字もだいぶ読めるようになった小学校中学年くらいの女の子と、真っ白なエプロンを付けて、今日は手造りのグラタンとポテトサラダを作ろうと思っているおかぁさんが目にするには、あまりにも性的な文章だったことは判る。

最初、この日記を書き始めたのはLycosの無料スペースだった。更新報告は日記才人で行う構造で、性的な表現をした日はアダルトカテゴリーで報告すればよかったので、楽天に移行した後、どんな日記も一律に楽天広場で更新報告されることに、正直、気が付いていなかった。ただ、いくら無料スペースだとは言っても、警告も停止期間も無く、いきなり全データを削除するサービスが存在するとも思ってはいなかった。

私専用のPCのHDがクラッシュし、あーあ、って思っていた翌日に、web上の日記も消えてしまったとき、もし戻ってこないときは、もう一度書けばいいなって、最初は思った。

今の暮らしになる前から、一日のメモって言うか備忘録を残す習慣があって、今の暮らしになってからは、縦長変形判の手帳に、言葉の羅列だけど、けっこうびっしり書き込んでいる。ソープで働くようになってからは、正直に言えば、毎日のお仕事の記録があり、お店でお相手したお客さんの外見的な特徴や、話題や趣味や、そして、あくまでも自己申告の生年月日やお仕事や、性的嗜好や性的なサービスの細かな部分まで記録してある。もちろんそのデータは、別に整理してもあるのだけれど。

そこには事実があって、少し心も書いてある。それを元におばちゃんしか居ないお家の、茶の間にある共用のデスクトップを開いて書き始めてみたとき、前に書いた私の言葉とは、まったく違う言葉になってしまうことにとっても驚いた。

最初に日記を書き始めたとき、私はまだ17才から18才になったばかりで、ソープで働いてはいたけれど、個室で殴られる前で、毎日の暮らしは「高校生」として過ごしていた。そして、父の死後、入院していた母は一時快癒してお家にいたし、少し落ち着いてきた暮らしの中で、18才の心と、少しずつ熟れていく身体を持て余し、お金を稼ぐことが面白くなってきていて、苦労して進学する事から逃げようともしている状態だったと思う。それを日記に書くことで、自分自身を確認しようとしている私がいる。少なくても、今日の私は、そんな風に思っていて、その日からはずいぶん遠い。そして、それがほんとうのその時の私かは、もう判らない。

日記を書かなくなって過ごした2002年の8月から2003年の10月まで、私は何度も何度も、ネットにいで自分の日記を読んだ。そこには言葉を飾ってはいるけれど、必死で綴った言葉があった。その日から日々を送り、その日より、数多くの性器を受け入れ、殴られないまでも、たくさんたくさん、嫌なこともあった日を支えてくれたのは、少なくても色んな事を諦めてはいなかった私が残していた、言葉たちだった。

そのことに思い当たったとき、その言葉たちが愛しくて、愛しくて、とにかく戻ってきて欲しくて、私はパニックになった。お仕事にも行けなくて、記憶している言葉の端々を書き留め、ネット中を検索して、少しだけ言葉を見つけて、何度も何度もまた検索した。

今の私は、もうあの時の私じゃない。良くも悪くも。ほんとうにその事を実感した。というか、認めようと思った。

そう思ったら少し落ち着いてきて、16日の日記を書いてみた。そして、一昨日、この日記にも書いたように、ほとんどすべての私の言葉は戻ってきてくれた。

今度の事で、私は新しい力も得た。ここに言葉を置いていたおかげで、私の事を心に掛けてくれている方たちが、こんなにもたくさんいてくれた事が、ほんとうに嬉しかった。

また少しづつここに言葉を残してみます。
もう一度、ありがとうございました。
こんな私ですが、もうすこしお付き合い下さい。

2004/03/18(木) 卒業写真
毎年この時期になるとラジオで必ずかかる歌がある。輝く日々を、少し過ぎてからめくる、卒業アルバムを歌ったその歌に、今の私は、ちょっと嫉妬したりする。
丸で囲まれて、目を半分閉じ、微笑んでいるというより、口を半分開け、呆けているっていうか、どちらかと言うと酔っているような、間抜けな表情の私がいる。クラス写真を撮る日、学校を休んだ。そして、欠席者を丸で囲む写真を撮る日も私は学校を休んだ。
その写真は、セルフタイマーで20枚近く自分で撮って、一番私に似ていない私の写真を選び、アルバム編集員に笑われ、説得され、呆れられながら、採用された。
UGのアダルトビデオでは、ほとんど顔は出ていないけど、撮影のイベントでは私は素顔を晒した。そして、デートクラブでは何枚ものプロフ写真を晒していたし、今でも、お店のフロントに来れば、お客さんに選んで欲しい、媚びを売りながら、清純を売りにする、ソープ嬢らしい私の顔を見る事が出来る。
俺、**に住んでいるんだ。」中年のお客さんが、そう話始めた時、最初はあまり気にしていなかった。その街には*0万人を越える人が暮らすのだし、今までにも何人もその街に住むお客さんはいた。何度か、指名してくれたお客さんは、ちょっと溝の出来た、娘さんの事を話し出す。
「女のくせに、背伸びをした進学校に行って・・・・」
「成績が下位になって、遊ぶようになって・・・・」
「年が近いから判るかも知れないと思って・・・」
そして娘さんの名前を何気なく言われた時に、私はこのお客さんにどこかであった気がしていた事が確信になる。小学校時代にはお誕生会にも行っていた、同じ高校に通う友人のお父さんだった。そして今でもいいお客さんだ。
その日から、私は顔を晒す事が本当に怖くなった。なにげなくめくる卒業アルバムに、名前付で出ている娘の友人が、自分がソープで指名している女の子だったら、どんな気持ちになるのだろう?
その日から、レンズが向くと反射的に顔をそらし続けた私が、卒業アルバムに載っているのは、その丸い囲みのクラス写真だけだった。
思い出は確かにある。楽しかった事もたくさんあるし、大切な友人も居る。でも私には、本当の日々が無い。本当の私の暮らしを知る人は、そのアルバムの中には居ない。
丸く囲まれて、変な顔をしている私を、友達だと思ってくれたみんな、教え子だと思った先生たち、ごめんなさい。ほんとの私は、こんな奴です。

2004/03/17(水) ありがとうございました!
たくさんの皆様から、御連絡を頂きました。
ほんとうにありがとうございます!

私のような者のために、お時間を割いて頂き
ご自分のPCのキャッシュやgoogleをはじめとする
ネット検索までしていただいて、
私の言葉をみつけて下さった皆様、
そして、励ましのお言葉を下さった皆様、
心より感謝いたしております。

今、皆様お一人お一人に返信をさせて頂いているのですが
思いもよらぬ数のメールを頂いて、まだまだ時間がかかりそうなので
取り急ぎこの日記で、御礼の言葉を述べさせていただく御無礼を
何卒お許し下さい。

おかげさまで、ほぼ全部の言葉が手元に戻ってきました。
うれしい!!

少しづつネットにもアップしていきますので
これからもよろしくお願い致します。

*PS

楽天さんのBBS、そしてメッセージ機能で頂いたお便りは
全部消えてしまっていて、こちらから連絡を取る手段がありません。
申し訳ありません。
またインフォシークのメールはアカウントは残っているようなのですが
今日現在開くことが出来ませんし、IS-WEBのホームページも
アカウントが停止されているようです。
この日記も、経営は楽天さんなので、停止される可能性もありますので
もしお手数でなければ、
日記才人さん http://www.nikki-site.com

テキスト庵さん http://www.spacehorn.com/text/
をブックマークしておいて頂ければありがたいです。

勝手なお願いばかりで申し訳ありませんが
何卒よろしくお願い致します。

2004/03/16(火) みなさんにお願いがあります。
ご心配かけて申し訳ありませんでした。

楽天広場の日記、削除されちゃいました(ToT)
タイミングが悪いと言うか、3月7日夜PCのハードディスクがクラッシュしていて
今まで書いていた私の言葉は、全部消えちゃいました。

楽天広場さんには、ページの復活は望まないので
テキストだけ返して欲しいと再三お願いしましたが
3度、「出来ない」との返信が来た後
「有料でもお願いできませんか」との問い合わせ以降
返信も帰ってこなくなっちゃいました。
そんな対応でいいのか?三木谷社長!?(^^;;

googleのキャッシュから5日分だけは拾えたのですが
もし、私のページを保存していらっしゃる方
あるいは、テンポラリーファイルに残っているページがありましたら頂けないでしょうか。
何卒よろしくお願い致します。

みなさんご存知だとは思いますが、
テンポラリーファイルの検索は、
スタートボタン-検索-ファイルとフォルダで
「含まれる文字列」に「reversible」と入れて頂くと見つかると思います。
開く前に、ブラウザは

ファイル-オフライン作業

にしておいてくださいね。そうしないとせっかく残っていたファイルも消えちゃいます。

メアドは
yukachan@press.co.jp
になります。

さすがに落ち込んでいますが、今のところなんとか生きています。
お忙しいところ恐れ入りますが、ご協力いただければ幸いです。

2004/03/06(土) side A:ちっちゃな Cafe
ステップを下ろして、駐車場のすみにバイクを止める。寒い間はあまり乗っていなかったので、今日は注油してから海外沿いの道を葉山まで走った。迷って、冬用じゃないグローブを付けてきた手は、少しかじかんでしまって、帰りの道沿いにみつけたちっちゃなCafeでお茶をすることにした。

何度も走っている道なのに、今までこのCafeには気付かなかった。ドアに手をかけるときに、思わず見回してしまったけれど、少し芽吹き始めたツタは、月日を刻んだものだし、銅製のドアノブは、たくさんのお客さんを迎えて、磨きこまれた色がある。

「いらっしゃいませ」迎えてくれたのは、春休みのバイトなのか、オーナーの娘さんのなのか、まだ15は超えていない女の子だった。

「何になさいますか?」明るい優しい声に、思わず私は微笑む。グローブをはずしながら、メニューを手に取ろうとすると、「ちょっとお待ちくださいね」と言って、カウンターに入っていく。

古いJ-POPのバラードが流れる店内は、他にお客さんはいない。クラシックが似合いそうな、木のインテリアに、木綿の趣味のいいクロスが溢れる店内に、そのバラードが何故かなじんでいるのが不思議だった。

「どうぞお使いください。戻ってきた女の子は、私の冷たくなった手を両手でギュッと握ってくれて、、そして、おしぼりではない、ワイルドベリーのちっちゃな刺繍の入った暖かいタオルを、籐の籠にいれて差し出す。カジカンだ手がゆっくり暖められていく。
「ありがとう。」って言う私に、とびっきりの笑顔をその子はくれる。

焼き菓子とミルクティーのセットを頼んで、私は目を閉じる。この風景はどこかで見た気がする。

紅茶の高い香りが漂ってきて、焼き菓子の仕上げに使っている、飴が溶ける香りもする。すごいなぁ、こんなちっちゃなお店なのに。

レザーのライダースのジッパーを下ろし、ブーツのバックルも2つ外す。今度来るときは、かわいいワンピースを着て来たいお店だなぁなんて思う。

ゆっくりゆっくり運んできてくれた、銀のお盆にのったお菓子は、それは美しくて、温かいミルクの表面には、濃い紅茶の綺麗な渦が見えている。

美味しい

お菓子は懐かしい味で、とても美味しく、紅茶はカラダ全部を暖めてくれる。私は、ふっと眠りに誘われそうになる。いい時間だ。

「娘さん、邪引くよ。」

邪気の無い、散歩中の年老いた御夫婦が揃って声をかける。

目が覚めると、私は砂浜で眠っていた。遠くに江ノ島が見えていて、自動販売機で買った紅茶を飲みながら、私は一息いれていたんだった。「ありがとうございます」ぺこりとお辞儀をして、今の夢に出てきた少女の顔を思い浮かべる。

それは、古いアルバムに写っていた、幼い母だったような気がして、そしてあの御菓子の味は、もう何年も食べていない手作りの味だったような気がする。

襟からも入っていた砂を払って、ジッパーを上げ、グローブを付けてヘルメットをかぶる。

女の子の手のぬくもりだけが、残っている気もした。

2004/03/05(金) side B: 初めてのフェラチオ。そして挿入が始まる。
その人は180cm近くあるがっちりした体格の人で、私は怯える。その人も、挿入ではなく、自分のペニスを人目にさらす事には、ちょっと抵抗があるようで、ノリがイマイチ悪い。MCが、盛り上げようとするのだけれど、「はぁ」みたいな返事になって、会場も盛り上がらない。ディレクターの人が私に耳打ちする。私は頷く。

オープニングで私はセーラー服を着た。今度はチェックのスカートにリボンタイ、そしてエンブレム付きのブレザーを着る。下着は付けていない。編集でカットする約束で、もう一度私は素顔をさらした。スポットが当たって、会場がどよめく。大した顔じゃなくても、見えることはやはり大切らしい。大柄なその人も、表情が明るくなる。

もう一度、目だけのマスクをつけても今回もブーイングは無い。椅子に座ったその人のひざに座って、私は生まれて初めてのキスをした。それはあこがれていた甘酸っぱい味ではなくて、タバコの香りとアルコールの味だった。手を伸ばして股間に触ると、硬い物に触れる。それも初めての感触だったけど、うまくいきそうで嬉しい気持ちの方が先立った。舌を少し相手の口に入れると、思い切り私の口に押し戻されて、驚く。

膝から降りて、客席に後ろを向き、足を開く。短いスカートの下から、おしりとその間にはヴァギナが見えているはずだ。ズボンの上から何度か頬擦りをして、ジッパーを下げる。前開きのトランクスの間から、突き出してきたペニスは、ちょうど練習用のバイブと同じくらいの大きさで私はホッとする。用意されていたたお絞りで軽くぬぐってから、練習を思い出しながら少しづつ口でペニスを愛撫し始める。そのたびにピクッ、ピクッと反応があって、上手くいきそうで、嬉しい。見ている人たちは、私のお尻と、ペニスと私の唇のアップが写っているモニターを交互に見ているようで、ざわめきは無く、生唾を飲む音と、BGMにはケニーGが間抜けに流れていた。

亀頭が思い切り張ってきていて、カリをなめていると、反り返ってくるのが判った。口を大きく開いて、亀頭からほおばり、ゆっくり頭を上下し始める。上下しながら、私の舌は忙しく亀頭をナメマワス。教えられていたように、手でも根元からリズミカルに撫で上げる。

シナリオ通り、MCの合図でその動きを一度止め、私はブレザーとブラウスだけを脱ぐ。スカートとルーズだけの私は、膝を立て、方向を変えながら、フェラチオを続ける。その人もノリが良くなってきて、スカートを持ち上げて、客席からよく見えるようにしてみたり、私の胸を揉んでみたりする。ぐっと玉が上がってきて、その人は無意識に腰を引く。私はそれを追いかけて、少し早く頭を振った時、伸び上がったペニスは、口を外す暇も無く、私の口の中に精液を放出した。

もし、そうなった時に、すぐに吐き出さないのも約束だった。ハァハァと息をするその人のペニスにタオルをかけてから、客席に向かって顔を向ける。少しづつ唇から精液を垂らして、少し微笑んでみる。拍手の中で、タオルで口をぬぐう振りをして残りの精液を吐き出して、私はもう一度微笑みながら、スカートのすそをちょこんと持って、お姫様お辞儀をした。そして、腰を落として脚を開き、指で大陰唇を開いて、処女膜をもう一度披露した。カメラがアップでとらえたその場所は、少し動いていて、なんだか別の生き物みたいだった。

上手く行った。初めてのキスはこんな形になっちゃったし、生まれて初めてエレクトしたペニスに触れ、口で咥えて、精液まで味わっちゃった。でも上手くいって良かった。会場は盛り上がっているし、撮影も上手くいっているようだ。

次はいよいよ、処女膜が破瓜されるイベントだ。

2004/03/04(木) side A:絵
パステルで書かれた、幼い少女は笑っている。前に伸ばした手には光を握り締めていて、その絵を描く作者を見詰め、すべてを信じている色がある。

ライティングデスクに飾られたその絵は、まだ少女の色が残る私と3才しか違わない母が描いた、私だ。

三年後の私はどんな私なんだろう。2才の私の笑顔を見ながら、ふとそう思った。

2004/03/02(火) side B:処女膜の間から膣内襞が見え、それをさらしながら、フェラチオを始める//
ビンゴは続く。次はタンポンを抜く権利だ。

ステージに上がってきた人は、ジーンズにデニムのジャケットを着たまだ若い感じの人で、どこで売っているのか、タレパンダのマスクを付けていた。

「慎重に、慎重に。傷を付けたら弁償ですよ。」

私はにっこり笑って、足を開く。カメラが寄ってきて、またアップの画面がモニターに並ぶ。人差指に紐を巻いて、ゆっくりタンポンを抜いていく。思わず膣に力が入ってしまい、締め付けてしまって、少し飲み込んでしまう。

「スッゴイ、閉まりです。さすが処女!」タレパンダはチャメッケたっぷりに、一度手を離して、大げさに驚いてみせる。歓声と、笑い声と、つばを飲む声が混じる。

もう一度紐を持って、力が入ってくると密着している私の内壁は引っ張られて、外へ襞が倒れていくのが判る。

「さぁ出てきました。注目!」

少し顔を出したタンポンを、処女膜が囲んでいて、引っ張られてついてきた、膣内壁が一段薄いほんの少しピンクの入った真珠色を覗かせている。そして分泌された液に照明が当たって、キラキラ光る。少しづつ、少しづつ抜いていくタンポンは、ある場所まできて、するりと押し出された。

無事終了。終始冷静を装っていたタレパンダ君も、やはり股間は盛り上がっていて、もみ上げから汗の粒が落ちていた。

「さて今回の、メインイベント、なんと処女のフェラチオの権利です。」

このイベントが決まったとき、私はまだ怒張したペニスを知らなかった。家族で温泉に行ったときに一瞬見えるその形や、図鑑や弟のペニスは知っていたが、エレクトしたその形を知らなかった。

「フェラは流れ的にも入れたいなぁ」プロデューサーのその提案に反対は無い。でも正直どうすればいいのか判らなかった。もちろん、ペニスを口で愛撫するという事は知ってはいたけれど。

私は8ミリに落とした裏ビデオを5巻と、再生用のビデオユニットと、怪しい表紙のセックステクニック本3冊と、実物に近い大きさだと言われたバイブを借りた。そのバイブは想像以上に大きくて、驚く。そして、自宅でこっそり見始めた最初のビデオの中のペニスは、また、まったく違っていて、下を向いていて、なんとなく想像していた形から、見る見る形を変えていき、体積を増し長さを増し、そして硬くなりながら、反りが出てきて、下向きから平行を指し、そして上を向いて青筋が立ち、フェラチオで刺激を続けると、脈打ち初めて、その状態のまま、膣に挿入されて、大きく動かす腰にしたがって、まっすぐなまま貫き続け、そして抜かれたペニスは、女の子のおなかの上で、伸び上がってから、射精した。

私は息を呑んでそのビデオを見続け、動悸が早くなり、顔が熱くなり、なんだか耳鳴りまでしながら、最後まで見続け、射精のところで腰が砕けた。それは初めての具体的な性衝動で、ソープ嬢として今は得だと思っている、「感じ易い体」の開花だったのかも知れないと今は思う。

なんだかクラクラしながら、他のビデオを見た、フェラチオの仕方が解説してあるへんなHOW TO仕立てのビデオや、3Pや5Pで、誰が誰としているのかもよく判らない、とにかくペニスとフェラチオと結合のアップばかりが続くビデオもあった。

本も一通り読んでから、バイブを取り出して、ビデオのシーンを思い出しながら、唇で裏筋を下から上へ少しづつ含みながら移動する。その時初めて、裏筋という言葉も知った。亀頭を口で含もうとすると、それはほぼいっぱいになってしまって、少し吐き気がする。とっても上下するなんて無理そうだった。でも慣れなくちゃ。

毎日少しづつ、練習して、吐き気も少しづつしなくなって、イベントの日が近づいて来る。でも今のやり方でほんとうにいいんだろうかっていう疑問も沸いてくる。バイブは最初から硬いし、ビデオの中でも、上手く立たなくて、悪戦苦闘しているシーンもいくつかあった。

フェラチオの権利を得た人が決まって、またファンファーレが鳴った。

2004/03/01(月) sideA :父の走った道(3)
草千里からやまなみハイウェイへ向かう。山を下る道は強い風の後のようで、路面に砂が乗っていて、コーナーの立ち上がりでアクセルを開くと、後輪が流れる。

道沿いに、そして道から見えるところに、いくつもトンガリお屋根のメルヘンっぽいカワイイ建物が建っていて、コーヒーショップだったり、ペンションだったりする。でもその幾つかは、壁の色は褪せ、窓には板が打ち付けられて、ほとんど見えなくなってしまって廃業の案内がはってあったりもする。

父が居なくなって、父の会社は破産し、その玄関には裁判所の張り紙と弁護士さんの張り紙が並んで張ってあった。無機質な言葉が並び、そこに明るい笑い声や、活気に満ちた仕事があったことなんて、まったく信じられない様子だった。

20人近い働いてくれていたみんなに、父は死ぬ直前に、会社にあった全ての現金を別けて振り込んでいた。自分の分は取らずに。結局そのことは、清算を進める弁護士さんの手間を増やすことになってしまったが、葬式には全員が顔を揃えてはくれた。でも、当たり前かも知れないが、御香典袋は1枚だけで「株式会社**元従業員一同」となっていて、一万円札が一枚入っていた。

長く父と一緒に働いていた人達は、その前の年にほとんど辞めてしまっていた。家族には死ぬ直前まで良い父だったが、仕事では元々、かなりワンマンで、金銭的に追い詰められて行く中で、ある意味、父は錯乱していっていたのだと今は思う。

ずっと苦楽を共にしていて、私達も「○○のおじさん」と親しく呼んでいた専務の肩書を持っていた人とも、恐らく心からの諌言であっただろうに、それが原因で殴り合いの喧嘩になり、社内の人心もそれを契機に変わってしまって、人々は離れていった。

葬儀の時、○○のおじさんは私達に深々と頭を下げて詫びた。「判っていたのに、判っていたのに、自分のチャチなプライドに負けてしまいました。一緒に居るべきでした。すみませんでした。」

急なワインディングロードが終わって、後ろに中岳を背負ってゆったりとした道に出る。自動販売機だけに電気が点いている、つぶれてしまった「ミルクと自家製ケーキとアイスクリーム」って言う看板のかかった草色の建物の前で、ひと休みした。入り口の横には、フラワーボックスが並んでいて、指先で土を触ると、チューリップの球根に触れる。

「残念ですがお店を閉じることになりました。短い間ですが、御世話になりました。」

薄くなってはいたけれど、優しい感じの文字で書かれた張り紙が、ドアの内側から張ってあって中は椅子もテーブルも無くてガランとしている。私は建物に話し掛けてみる。

きみはきっと、楽しかったよね。お店の人にきれいにしてもらって、お客さんが来てくれて、美味しそうな香りが好きだったんだよね。明日もお仕事しようって思って待っていたのに、お店の人も、お客さんも来なくなっちゃったんだよね。お花も枯れちゃったし。

外に出ている売り店舗の看板に「いいお仕事紹介してあげてね」って言ってから、私は大観峰へ向かう。暗くなっていく道にヘッドライトの光が伸びる。

まだ、まだ走らなくっちゃ。


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