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最新の絵日記ダイジェスト
2006/06/04 side A: ひさしぶり
2005/09/17 side A : ひまわり
2005/09/16 side A : 空 
2005/09/15 side A : そして
2005/05/23 side A : レースフラワー

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2004/05/31(月) くせ
くせ (初めてカラダを売りにいった日)
梅雨の街は色を無くして灰色に沈む。暗い空から降りてくる銀色の糸は、紫陽花にだけ刺繍をしたように色をつけるのが、幼い頃から不思議だった。

小さな出窓からの見慣れた風景のなかで、鯉幟の泳ぐ青空の下では淡かった、南の庭の額紫陽花は紫に染まっていき、西の庭の紫陽花は青に染まっていく。こんな季節のあの日、私はカラダを売りにいった。

小学校に入ったばかりの頃、念を押されて、念を押されたのに、朝晴れていると、学校に傘を持っていくのを忘れていた。病弱だった私のために、母か、父が傘を届けてくれて、私は濡れずに家へ戻る。

「今日こそは忘れちゃだめだよ」って言われているのに、また忘れる。

帰り道に手をつないで、結局持ってきてくれた私の傘はささずに、一つの傘で帰りたくて、朝は晴れていて、昼過ぎから雨が降ることを、願っていたりした。ほんとうは。そしてそのことを、父も、母も知っていたとも思う。

初めてカラダを売った日も朝は晴れていた。一度交わってから見た窓ガラスには、雨粒がついていて、外の夜景がそこだけ曲がっていた。もう私は傘を忘れては居なかったのだけれど、深夜、その部屋をお客さんと出るときに、その傘はあげた。

家に帰る道で、曲がり角のたびに目を凝らし、時々後ろを振り向いた。そして、傘の無いまま、私は濡れてお家に着いた。17歳だった。

今でも、紫陽花の季節の急な雨のときは、もう死んでしまった父か、心が壊れて入院している母が、傘を届けてくれそうな気がしてしまう。

いつか、傘を届けてくれる人に出会うまで、この癖は治りそうにもない。

2004/05/30(日) side A : 淡い花  (2)
天気予報は二日続けて外れてしまい、お水を欲しがる花達を、危うく枯らしてしまいそうになる。

もう、陽射しはすっかり夏で、気付いてくれた妹がお水をあげてくれなかったら、淡い花たちは自分達の季節を迎えられないところだった。

夏の花たちも、慌てて花を付け始めて、お庭はますますごちゃごちゃになる。水を撒くときに立つ香りは、次の季節のものだった。

2004/05/29(土) side A :   朝顔一号
最初の朝顔が咲く。

去年は西洋朝顔が一号だったのだけれど、あまり種を残せなかった今年は、琉球朝顔が最初に咲いた。

五月病かな、なんてちょっと思いながら過ごしていた去年のこの季節は、あまり記憶が無い。

ずっと目標にしていた大学で学び始めることができたことは、とてもとても嬉しくて、どうしても付いて来るって聞かなかったおばぁちゃんと出席した入学式の写真の私は、ほんとうに嬉しそうに笑っている。

父と母が出会ったその大学で学べることも嬉しかった。

7月に催される地域との交流行事に向かって、所属したサークルも活動していて、ソープの仕事を少し減らして、大学生活を楽しんでいたはずだったのに、すこしずつ私は苛立っていった。

正直に言えば、学友も先輩も、そして教職員も裕福な家庭の人が多い。もちろんそれは悪いことではないのだけれど、言葉にできない黒い気持ちが、私の中に溜まっていった。

服装を比べる。バッグや靴や小物を比べる。住んでる場所や、乗用車を誇る。

今思えば、それは誇っているのでなくて、その人達には日常生活で、当たり前の情報交換だったのだと思う。でも、その時は、自分だけが違う暮らしの中にいて、そして、劣っていると思ってしまった、その暮らしを維持するためにさえ、ソープで働いている私が嫌だった。

高校生のときに、カラダを売ることが出来たのは、まだ幼かった私の、お家のみんなに対する、義務感や責任感、そして「いい子」であることが好きな性格や、ちょっと気取ったヒロイン気分も無かったと言えば嘘になる。

「みんなのための犠牲になる私、カッコイイ」

実際にカラダを売るようになってからは、そんな事を考えている余裕は無かった。カラダを一度売り始めてからは、その収入をあてにして、お家と共に相続してしまった借金の返済計画を立て、暮らしの計画を立て、もし自分が身体を壊してしまったときの準備をし、少しでも時間があれば、出来る限りカラダを売った。第一優先は、カラダをお金に換えることで、その隙間に、私の高校生としての暮らしがあった。

大学の入学金や授業料を払い、奨学金も受けることが出来て、通帳には残高が残るようになって、少しは自分の時間を持ちたくなった。そして、持てた時間は私を癒す事は無くて、不満を育ててしまうものになってしまった事が、今はわかる。

ほぼ半年間、私はどんどん壊れていった。

惰性でカラダを売り続けていたし、学校にも行ってはいたけれど、ささくれ立っていく気持ちを止められなかったし、いつの頃からか、記憶さえ曖昧になっていった。

良い事かどうかは判らないけれど、秋の短い旅を経て、カラダを売ることを第一優先に戻してみた。とにかく、それを一番にして、暮らしを続けてみる。

17歳の私は、カラダを売り始めた最初の頃から、自分に手紙を書いていた。そして、18歳の誕生日に、この日記を書き始めて、まだ2年しか経っていないけど、いろんな事があった。

書いたこと、書けなかったこと、書いてしまいたいこと、書いてはいけないこと。

今日も私は、今からカラダを売りにいく。今日もTシャツにジーンズ、洗い晒しのコットンシャツのオシャレとは無縁な服装で。そして日焼け止めだけのノーメイクは旅から帰ってずっと変わらない。

朝顔のつるがどんどん伸びている。花芽もいくつか見えていて、色を確かめながら、つるを導いてみる。

今日は雨だとの天気予報は外れていて、いまのところは晴天だ。

2004/05/28(金) side A :  淡い花
夏至まであとひと月の、太陽の光があふれている。

風の中の湿った香りは、色を増していく紫陽花と共に、梅雨の近いことを教えてくれるし、朝顔たちは双葉を捨ててつるを伸ばし、向日葵の苗たちも空に向かって手を広げ始めて、その次の季節を待ちわびる。

葉を茂らせる木々の陰に、淡い花たちが開き始める。

小さな花弁は、立ったままだと、ただ色だけにしか見えないけれど、ちょこんとしゃがんで、ちゃんと見れば、ひとつずつ、とても綺麗な形をしている。

ちゃんと見るね。これからもずっと。

2004/05/27(木) side A :   るこう朝顔    / 貝殻草ふたたび
赤い小さな花が開く。ギザギザの葉っぱに、1cmちょっとしかないその花は、何日か続いた晴天に、去年よりずいぶん早く、花を付けた。

ほんとうはいけないのだけれど、今月は生理休暇を延ばしている。5月の連休明けから学会が続いていて、休講が多い。それに合わせて、ソープでの仕事を調整し、出来るだけ出勤して、外出や貸切も入れ、休講予定の無い来週、休むことにした。

私は外出や貸切が多い。

最初に仕事を仕込んでくれた先輩に、釘を刺された事が幾つかある。
1.仕事にかかる以外の金銭的負担を掛けな
 い。つまり、プレゼントをねだったり、
外出の時に、お買い物の時間を取ったり
 しない。
2.ソープでの約束事を崩さない。
3.店を通さない営業を絶対しない。
4.営業電話や営業メールは、常連さん全員に
 するか、全員にしないかはっきりする。
5.「好き」はお客さんとして「好き」であって、
  何かあれば、恋人になりそうな
 期待をお客さんに持たせない。

他にも細かい注意はたくさんもらったけど、大きくはこの5つに集約される。

何度か崩れそうになりはしたけれど、そして、お客さんにもっと来て欲しい時には、破りたくなりもしたけれど、なんとか踏み止まって、今は安定した仕事が出来ている。

前にも書いたのだけれど、その一番の理由は、上がっていった先輩たちから紹介してもらった、太いお客さんにカワイガッてもらっている事だと思う。

お客さん達は、家族の写真を見せ、私と同年輩の娘さんとの事を話したり、奥さんとの恋人時代の思い出を語ったり、性的な快感を私に求めるのとは別の顔で話すことも多い。

そして、それはありがたいって思っている。

貝殻草。

閉じているところを知らないって、言うか、貝殻草を始めて知ったって、かなりの数のメールをもらったので、写真をのっけてみます。同じ花に、見えますか?

2004/05/26(水) side A :   貝殻草   
花は全体にカサカサしていて、花弁を開いた後も、夜がくるとまた閉じる。
生を終えると、花は落ちるのではなく、指で触るだけで、粉々に砕けていく。
花なのに、なんだか無機質な感じがして、どこか奇妙で、この二年は、生えるに任せているだけだった。

花の名を知ったのは、安部公房の「箱男」でだった。

いったいどんな花だろうと、調べてみたのだけれど、その時は結局わからなくて、100円ショップで、見つけた種には、「麦藁菊(別名貝殻草)/キク科、ヘリクリサム」と書いてあった。それをお庭に蒔くと、キレイではあるのだけれど、奇妙な花が咲いた。

今日、今年最初の花が咲いた。貝殻のように閉じた花が、朝日の中で開いていく。その花は、とても瑞々しくて、そのことを、私は、初めて知った。

奇妙だとばかり思っていて、ゴメン。

2004/05/24(月) side A :   春の空 春の風 
空はあまりにも春の空で、風はあまりにも春の風で、まだ夢の中なのかと、一瞬、思ったりした。

赤い薔薇たちが、この日を逃してなるものかと、次々につぼみを開く。

慌てない、慌てない。

雨が降っても、晴れの日はまたくるよ。

みんなに遅れちゃっても、キミだけの日もあるよ。

2004/05/23(日) side A :   待つ
花に色が差し、葉の色は深くなる。

風で折れてしまったその花は、春の光と、暖かい雨にはぐくまれて、季節を待っている。

天気予報を聞いて、もう一度、テープを強く巻いた。

だいじょうぶ、だいじょぶだよ。

もし、折れてしまっても、またきっと、だいじょぶだよ。

2004/05/22(土) side A :   名刺   
めずらしくカウンターは空いていて、ちょうど常連のお客さんが抜いたばかりのシャンパンで、ミモザを御馳走になる。

顔見知りだけど軽い挨拶はしても干渉はしない、その距離があるのが、このカウンターだ。

不似合いな着信音が、お客さんの内ポケットで鳴って、「悪い悪い」と片手を顔の前で振りながら、ドアを開いて外に出た。

何度かその店で会ったことのある、シャンパンを御馳走してくれた常連さんは、肩をすぼめて、ニコリと笑い、マスターにウインクをして、名刺を私に渡す。

「電話してね」

私も、二コリと笑って両手で受けて、頭の上まで上げて、最敬礼して、見ないまんまでお返しした。

「やるね」

今度はニヤリと笑った常連さんは、マスターにチェックを頼んで、でも一万円札を二枚、カウンターに置いてドアに手を掛ける。

「どこか、違う場所で会える日を。」

「縁があれば」

入れ替わりに汗を拭きながらお客さんが入ってきて、「あれ?**さん帰っちゃったの?」と間延びした声で尋ねる。

目が合ってしまって、マスターと私はちょっとふきだす。

バーの夜は更けていく。

2004/05/21(金) side A :   ダリア  /  その日のために   
ちょっと遅れて、小さな株のダリアが咲く。私の手入れが悪くて、葉を伸ばし損ねてしまっていたその株は、鉢を変えて、陽あたりのいいところへ移してから、ゆっくりとだけど元気になった。

少し小振りだけれども、朝、開き始めていた花は、門灯の光の中で私を迎えてくれる。

そろそろと思っていた、二階のベランダで育てているひまわりの苗も、ずいぶんしっかりしてきて、背もちょっとだけ伸びてきた。

お庭で自分の力だけで咲いてくれるお花達がいる。でも、去年お庭で育てようとしたひまわりの苗たちは、夏の光を見上げる前に、手を入れても、手を入れても、虫に食べらてしまって、咲かないままで、眠りについた。

植木鉢のひまわり達は、2階のベランダで育てていて、しっかり大きくなって、花芽もついてからお庭に下ろした。ちょっと虫に食われちゃったりはしたけれど、それでも大きな花は、雨の多かったその季節に、夏を唄ってくれた。

今月は、弟も妹も修学旅行だった。

うつむくことも多かった二人は、いつか友達にとけこんで、学校にとけこみ、暮らしにとけんでゆく。

父も母も居ないこのお家だけれど、二人に私が、できることはしたい。

いつか、二人の、その日のために。

2004/05/19(水) side A :   雨 そして つつじ  
ツツジの花の色が、雨に沈んでいる。

ポツリポツリと波紋が広がっていて、今から露天風呂でお客さんと交わると、後で、髪を洗わなくてはならないなぁなんて、ちょっと憂鬱になる。

遠く海も望めるその部屋の露天風呂は、街の全景を見渡せる。でも、低い塀から身を乗り出さなければ、どこからも見えないように造られていて、珍しくお客さんも初めて来たようで、「こりゃいいな、こりゃいいぞ。」とご機嫌だった。

ポチ袋に1万円のチップを入れて、それをティッシュでもう一度包んで、挨拶の終わった仲居さんに私が渡す。お客さんは床の間を背に、お礼の言葉を軽く受け流して、鷹揚にうなずく。鍵も無い玄関の扉が閉まる音が聞こえる前に、お客さんは服を脱ぎ捨てて、露天風呂へ歩いていった。

一度交わってから、何故だか今日はモエを開け、飲み終えたお客さんは、布団もかけて軽いいびきをかいていた。私は、少し濡れた髪で、浴衣を肩にかけ、椅子に座って本を読んでいた。

雨はすこしずつ強くなり、波紋は、水面を覆いつくす。打たれるつつじの花は、少しずつうつむいていく。

2004/05/17(月) side A :   コップの中の葱坊主
先週、寒かった日に、餃子鍋をみんなで囲んだ。

風邪が完全に抜けていなかったので、葱もいっぱい入れて、ふぅふぅ、はぐはぐ、いっぱい食べた。

葱の先っちょは、お味噌汁の具にしようと思って、枯れないようにコップに挿しておいたのだけれど、いつのまにか、葱坊主が伸びていた。

今日は一緒にいようね。

お互い考えたって、判んないもんね、明日からどうなるかなんて。

でも、今日は一緒で楽しかったね

2004/05/16(日) side A :   薔薇じゃない 
薔薇じゃない。よく間違えられてしまうのだけれど、薔薇じゃない。

よく見れば、葉っぱが違うし、花弁のひとつひとつの形も違う。

ちょっと見だと、間違えられてしまっても仕方ない気もするのだけれど、ちゃんとした名前だってある。

知っている。

私は自分がなんであるのかを。

薔薇だと思い込みたかったこともある。
恥ずかしいけど
薔薇だって嘘をついたこともあった。

ごめんなさい。

色々廻り道や、思い出したくない、嘘もついたけど。

やっぱり、私は、私で、いようと思います

2004/05/15(土) side A :  あさがお   
南の垣根沿いには、朝顔の双葉が並んでいる。もう少し、気温が高くなってから、種は蒔こうと思っていたので、並んでいる双葉は、よく見ると、とんがった西洋朝顔だったり、丸っこい和種だったり、厚みのある琉球朝顔だったりと、ばらばらの種類がばらばらの位置で、去年落ちた種が自分で芽を出してきたのだってわかる。

去年の夏の日々は、私は眠れず、泣いている日も多くて、通院していた病院の、異なった診療科へ紹介状を書いてもらい治療も受けていた。せめて眠るためのベンザリンやユーロジンから始まって、レンドルミンからハルシオンの処方を受け、病名がついてパキシルまでは行った。*橋駅から病院までの坂が登れなくて、泣きながら病院へ電話して、迎えに来てもらったのも、二度や三度ではない。

笑顔でお客さんを送り出した後で、膝が震えて倒れこみ、ボーイさんを慌てさせたり、来店待ちの控え室で「噂の東京マガジン」を見ていて、顔も心も笑っているのに、涙をポロポロ落として、女の子達にも驚かれたりした。

怖かった。

父の死に顔が、そして私達が見えていない母の姿が、何度も何度も夢に出てきて、父の娘で母の娘であることと、結びついてしまう。そうなってしまった私の夢も何度もみた。なんとなく、もうそっちの方がいいや、って思わなかったと言えば嘘になる。

でも、仕事は一日も休まなかった。

治療が的確だったのか、秋の始めにこの日記を書き始めたのが良かったのか、症状は軽くなり、少なくても自分の決断で、いつもの暮らしに小休止を取って、父の走った道を辿る旅に出た。

決めた時は2-3日の予定だったのだけれど、バイクをフェリーで送り、予定より長くなったその旅で、少しだけ私は少女のシッポを捨ててきた。

夏の陽射しの中で、朝顔はつるを伸ばし、沢山の花を咲かせ、そして秋の風の中で枯れていった。いつもの年なら、ご近所にお分けできるほど採っていた種を、去年は少ししか残すことができなかった。

今年の朝顔棚の花の色は想像もつかない。でも、きっとキレイに咲く気がする。そして、いつものように、種類別に、色別に、今年は種を残しておこう。

来年だって、再来年だって、その次の年だって、ここで朝顔を育て続けるんだから。

2004/05/14(金) side A :   薬
ルピナスのもう一本はピンクで、いっしょに紫の花芽も伸びてくる。

妹と年が離れているのは、私に原因がある。妹も、少し同じ病気があるのだけれど、私はある時期まで入退院を繰り返し、恩人とも言える医師に巡り合うまで、安静に近い生活を送っていた。

その先生の思い切った治療方針のおかげで、常時、発作止めの吸入薬とステロイド錠剤を持ち歩き、それでも止まらない時のために、携帯式の液状薬品の電動吸入器まで持ち歩いていたけれど、学校に通い、遠足にも、運動会にも参加できるようになって、ひょろひょろだった身体は、少しずつ、少女らしい身体になっていった。

毎月、心電図を採り、3ヶ月に一度CTを採りながら、発作が出れば即吸入をするという治療と言うか対応方針が、良かったのかどうかは判らないけれど、少なくてもそのおかげで、ほぼ普通の学校生活をおくることができたのは間違いない。

父と母も、本当に手の掛かる私に、全力で付き合ってくれた。少しでも、発作時に対応できるように、父は勤めていた会社を辞めて、住と職を近くしてくれたのだし、母も出産後復帰するつもりだった職を辞して、私だけの母になってくれた。

発作の間隔が遠くなり、ある程度私が自分で病気と付き合えるようになってから、妹が生まれ、弟が生まれた。私が健康に生まれていれば、家族は違う形になっていたかも知れない。

でも、それからずっと、吸入を手放せたことは無いし、今も病院へ毎月一度通い、ひと月分ずつの薬をもらい、その薬のおかげで、普通の暮らしがおくれている事に変わりは無い。いつも薬を傍に置いて、父とキャッチボールをし、マラソン大会にも参加して、海で遊び、バイクにも乗って暮らしてきた。

今、飲んでいる薬たち。

ピルと眠剤以外は、もう長いお付き合いだ。

2004/05/13(木) side A : 今日
手櫛で一度とかしてから、ちょっと巻いてカッチンで止める。巻きそこなった、幾筋かの髪が肩を撫ぜるので、もう一度巻きなおして、止めなおす。

雨の日は、髪がまとまらない。細すぎる私の髪は、天気予報に使えるねって、ずっと前に、母が笑いながら言っていた。

今日も風が強くて、お店を出るときにメイクを全部落としてその髪型にし、眼鏡もかけて傘をさし、ソープ街を抜けてしまうと、私は街に溶け込んでいく。

今日も3コマの講義を受けて、4コマ指名で個室で仕事した。

12人の学友と言葉を交わし、3人の教授の講義を聴き、そのうちの一人とは会話をして、4人のお客さんと交わり、6回射精してもらい、女の子とは2人挨拶をしただけで、ボーイさんの声はルーチンワークで必要な台詞以外、一言も聞かなかった。

少しずつ、二人の私の距離は遠くなる。

それが、良いことかどうかは、まったく判ってはいないのだけれど。

2004/05/12(水) side A: ルピナス そして ちっちゃな薔薇
五月の雨に打たれて、アネモネ達が眠りに急ぐ。あんなに、次から次に花芽が伸びてきていたのが嘘のように、葉は少しずつ色を変える。白と赤のアネモネと、白とワイン色のパンジーは、クリスマス前から咲いていて、クリスマスにもお正月にも彩りを添え、明るくなってゆくお陽さまの光のなかでは、春の花の顔をして、揺れていた。

少し遅れて咲き始めたポピー達は今が盛りで、その細長い茎の間から、ルピナスの大きなタワーがぐんぐん伸びてきた。

お庭には、一年だけの花は少なくて、球根や低い樹木や、放っておいても、去年落ちた種からまた咲く、そんなお花が多い。

下から開きだした、ルピナスのタワーの陰に、ちっちゃな薔薇が咲いている。きっと枯れてしまったと思われて、でも、捨てられはしなかったその木には、他にはつぼみも無く、その花だけが咲いていた。

ごめんね。お花が終わった後に、手を入れて植え替えるからね。次の季節には、たくさんお花が咲くといいね。

2004/05/11(火) side B : dress-up doll
三つ編みにして微笑む。着けるのはブルーのチェックで、薄い空色の爪には、少しだけ星型のラメをのせる。上目遣いだって時々して、本当の年より幾つか若い私を装う。








少し内巻きにブロウして、パールの爪で細いグラスをつまむ。本当は嫌いな、甘い香水が包み込む灯りを落とした部屋には、レース刺繍を着けてみる。









ありがちな柄を着け、首に手を回して少し耳たぶを噛んでみる。今日だけは、アイラインも強くして、カラコンも入れてみた。



下着だけの着せ替え人形も、dress-up doll って言うのだろうか。

2004/05/08(土) side A :   薔薇 
薔薇が咲く。GWが終わり、ひとつの季節が終わる。

朝の光に包まれて、見る見るつぼみがほころんでいく。初めて霜が降りた季節には、枯れてしまったのではないかと思うほど、葉は無く、細い幹だけが霙混じりの風に揺れていた。

少しずつ強く、暖かく包み込んでくる陽の光の中で、葉を伸ばし、つぼみは少しずつ大きくなって、今日を待っていた。

風と雨の日々が過ぎて、今日がある。

今年もありがとう。来年もよろしく。

2004/05/05(水) side A :   灯り 
オフィスらしいビルの灯りは、一瞬のうちに、フロア全部が消える。また、一つ、そして一つ消えていって、ビル全体が眠っていく。

帰るお家には、別の灯りが燈っていて、お帰りなさいの声や笑顔や、シッポを振って「ワン」って迎えられたり、「ふぅ」ってため息をついてブーツを脱ごうと座り込む玄関で、身体をすりつけて、「にゃぁ」っていう声に迎えられたりする。

だれも居なくて、一人で倒れこむベッドでも、「カワイイッ!」って一目惚れで買ってきた、パジャマや枕カバーは迎えてくれるし、忘れていた、あの日のことがふとよみがえって、ちょっとニコリって出来ることだってある。

ありがとう、今日を過ごせて。そして明日がもうすぐ来る。





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御連絡です

沢山のメール、そして2つの掲示板へ書き込みをありがとうございます。
まことに申し訳ないのですが、お返事が間に合っていません。次の生理休暇の時期に一気にお返事をさせて頂ければと思うのですが、全部お返しできるか、ちょっと自信が無かったりします。順次お返事をさせて頂いていますので、何卒悪しからず御猶予ください。
別件ですが、携帯メールから頂いている方で、アドレスの最期が「−(ハイフォン)」、あるいは、ユーザーネームの間に「.(ドット)」を使用されている方は、私のメイン「press.co.jp」サブメール「infoseek.jp」はどちらも送信サーバーが対応していないので、お返事を返すことが出来ません。別メールアドレスをお教えください。
何卒宜しくお願い致します。

2004/05/04(火) side A : 風の吹く日   
鳴りが聞こえている。遠い旅路を終わる波達の別れの歌が、私の部屋まで届き、南の強い風にお庭のお花をみようと開く、小さな出窓から入ってくる風にも、潮の香りがする。

一瞬、雲の切れ目から陽が射して、殻を落としたばかりのポピーの花を、透き通った色に見せてくれる。

少し落ち着いた空に、一瞬、傘をさした月が見える。

もう10日間、ソープの仕事を休んでいない。その間、祭日や休日は通しで入り、結局オールナイトの貸切にも3日出た。私はすこしずつ「おねぇちゃん」の顔が薄くなり、ソープ嬢としてはいい顔つきになっていく。

風が止んだお庭には、ポピーの花びらが散っていて、今日の朝、写真を撮った、殻を落として開きはじめたばかりだった、あんなに透き通っていた色の花びらも、全部散っていた。

ちょっとがっかりして、折れてしまった何本かのアジサイの枝にテープを巻き、添え木をする。
でも、その枝の先端の花芽達には、それぞれの今から現れる色が見えていて、明日は立夏だと気付く。

風が古い季節を連れて行き、そして連れて来る、新しい季節は、何を見せてくれるのかな、なんて、思ったりした。

2004/05/01(土) 手をつないでください(入院中の母へ)
何でもない白い紙ナプキンが、バラ色のリボンで結ばれて、お祝いの色になる。

3人分のナイフとフォークが並べられている小さな食卓の脚の間には、電器炬燵のヒーターが見えている。

その炬燵テーブルにもパッチワークの布と、それを汚さないように透明ビニールクロスがかけてあって、ちっちゃな私は、先っちょの丸い、プ〜さんの付いたフォークとスプーンを握っていて、並べられた質素だけれど、手をかけたお料理たちと一緒に、手をつないだ母と父が後ろで笑っている。そして小さなホールケーキには、ロウソクが5本立っていた。

写真の母は、数えてみれば20代の半ばなのだけれど、三つ編みの髪を片方の肩にたらして、少女のように笑っている。背景には、狭いシンクと、湯沸し器が写っていて、その小じんまりとした部屋へ、右手を母と繋ぎ、左手は手すりを持つのだと言い張って、カンカンカンって言う音を立てて昇った、外階段の音を思い出す。

今思い出しても、母と父は仲良しだった。

連れて行ってもらった、小さな動物園で、「ひとりであるくもんっ!」って繋いだ手を放し、先のほうまで駆けていって振り向くと、2人は手を繋いでいた。「私が手を繋ぐ〜っ」て、ちょっと幼い嫉妬心で戻ると、父がひょいって肩車をしてくれて、母はそのシャツの肘のところを、つまんでいた記憶がある。

母の本箱には、ナルニア国物語があり、オズはシリーズだったし、ホビットの冒険からシルマリルの物語、はなはなみんみがあって、安房直子さんが揃い、さべあのまさんや坂田靖子さんのコミックス、そして沢山の絵本が並んでいた。その本たちとその本たちを好きな母の心に包まれて私は毎日を過ごした。

アルバムには、ぎこちなく並び、少しずつ寄り添い、そしてしっかり手をつなぐ、同じ時を歩んできた、母と父の写真がたくさんある。家族全員で撮った最後の写真も、私達妹弟の後ろの二人は手をつないでいた。

父が自ら命を断ったとき、母は心を閉ざしてしまった。山積になっていた実務上の問題や、心細くて泣いてばかりいる妹や弟さえそのままに、自分だけの世界に行ってしまった。

恨んだことがないと言えば嘘になる。夢の中では、何度も母を怒鳴りつけ、殴りつけ、足蹴にしたこともある。

「勝手すぎるよっ!かぁさん!!」

一度退院できた母は、昔通り美味しい、そして綺麗なお料理を作ってくれて、色の褪せたカーテン地を、飲み終わった紅茶の葉で染めてクッションを作り、お花を植えて、ハーブを育てていた。そして独りでアルバムをめくっていた。

少し経って、テーブルに父の分のお料理が何度目か並べられ、その事を祖母が少し強く言った日、母は階段を駆け上がってアルバムだけを抱き、玄関から飛び出していった。私達は、全力で追いかけて、追いついたけど、もうその目には私達は見えていなくて、父の名前を何度も何度も、出会った頃の、そして二人で歩くことを決めた頃の愛称で呼んでいた。何度も何度も。

ペンキの剥げた外階段を昇ると、ペコペコのベニア板のドアがあって、そこには母が好きなダヤンのWelcomeBoadが揺れていて、まだ三人だった家族の名前が、レザーの表札にステンシルで書かれていた。微笑んで、ほんのちょっと叱られて、そしてまた微笑み、笑いあう。妹が生まれ、父は家を建て、弟が生まれて、ずっとずっとそんな暮らしが続くのだって思っていた。

母と父は仲良しだった。きっと愛し合っていた。私にはまだ愛は判らないけれど、少しずつ母の心が染みてくる。

少しずつ戻ってきてね。とぅさんはもう居ないけれど、そして、とぅさんみたいには愛してもらえなくても、私達はかぁさんが好きです。私達と手をつないでください。


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