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2005/09/17 side A : ひまわり
2005/09/16 side A : 空 
2005/09/15 side A : そして
2005/05/23 side A : レースフラワー

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2005/05/23(月) side A : レースフラワー
咲く前のその花は、遠くから見ると葱坊主のようだし、もっと遠くから見ると、綿毛になったタンポポみたいにも見える。

陽射しと、今日の暖かさに、いっせいに開いたその花は、名前の通りに見える。

幼い頃、ありきたりなつぼみの形から、ポワポワのボールみたいになってから、ぱぁーっと開くその花を見て、私はなんだか「醜いアヒルの子」の話を思いだしたっけ。

レースフラワー。

今、その花は、何故か一番、母の面影と繋がる花でもあるのだけれど。

2005/05/16(月) side A : 少し小さいルピナス
ルピナスの花房は、去年より少し小さい。

同じ季節に植えて、同じように手入れしていたのに、今年の庭の初夏の花たちは、少し遅れて少し小さい。

去年の5月の日記を読んでみるともう朝顔も、るこう朝顔も咲いていて、ガクあじさいも咲いている。

おととし、私は壊れていて、そのことを頭の中で整理しながら、去年のこの季節を暮らしていた。

そのことを言葉にし、ネットでその言葉を受け止めてもらえる、この文字を読んでくれるみんなに支えられて、私はリアルの世界で暮らすことができている。

チューリップたちが眠ったあとの、緑の中でルピナスは伸びる。

そして、風は、次の季節の香りがした

2005/05/13(金) side A : ことしも
小さな花が今年も咲く。

自分の力だけで

芽を出し

茎を伸ばし

そして、花を付ける。


あの年、

枯れかかっていた紫陽花も

小さな花芽が膨らんでいる。

もう少し、もう少し頑張ろうね。

一緒に。

2005/05/12(木) side A : もう一度チューリップ 
昨日最後の花が散って、チューリップはもう庭にはいない。

花色も、形も分からないまま植えた球根から、今年はほんとに色んな花が咲いて、とてもとても、嬉しかった。

早く咲いた株は、もう葉も枯れて、少しずつ掘り上げも始めて、大きく育ってくれた球根と、来年は花は無理かも知れない球根に、分けておく。

あの年、掘り上げなかったチューリップ達は、次の年、ほんの少しだけが花を付け、気付いて堀り上げた球根はみんな小さくて、私は次の年、まとめて植えた。

どうせダメだろうって思った、その場所からは、前の年よりたくさん花は咲き、いくつかの球根はりっぱに太っていて、それから毎年咲く色もある。

もう、半年もすれば、私はまた、チューリップを植える。

どんな風に咲いてくれるんだろう、そして、どんな風になった私が、それを見ることができるんだろうか、なんて、きっと、思いながら。

2005/05/05(木) side A : 紙の鯉のぼり
窓から少し離して置いていたハイビスカスを窓辺に寄せる。ほんの少し前にはあたっていた位置に、もう陽射しが伸びないほどに、太陽は高い。

チューリップはほとんど散って、葉が枯れるまではこのまま育て、掘り上げてから夏の花は庭に戻る。

あれは、妹はまだ生まれていなかったので、入ってすぐの幼稚園でだったと思う。子供の日の少し前、紙を切って色を付け、先生が二枚張り合わせてくれ、背びれと胸びれも張ってくれて、鯉のぼりを作った。

何匹作ってもいいよって言われたのは、今思えば片親の家庭や、祖父母と同居の家庭への配慮だったのだと思うけど、私は、濃いブルーで父に見立てた大きな鯉と、母に見立てた赤い鯉と、少し目を大きく書いた、ピンクの鯉の三匹を作った。

丸い中空のポールに紐を通し、矢車代わりの小さな風車を先っちょに付けて、出来上がった、口を開いた鯉のぼりは、とてもステキに思えた。

紙の鯉のぼりは少し重いので、走らなければ泳がない。でも、二階にあった私の住むアパートのベランダなら、風も強くて、泳いでくれそうな気もして、ワクワクしながら、帰りの時間を待っていた。

帰りの列は、もうお祭りで、みんなが鯉のぼりを振り回す。先生は注意するけれど、危なくなければ笑っていて、私は手を、ピンっっと上げて、青空を背にした鯉のぼりを見上げた。

一番最後の私の家には、病気がちであることもあって、先生が玄関の前まで付いてきてくれる。

挨拶が終わって、ベランダへ一直線に向かい、「父さんと母さんと私だよ!」って、はずんだ気持ちで、鯉のぼりを見せた時、「何故、4匹じゃないの?」って叫んで、突然母が泣き崩れたのを、私は忘れられない。


今になれば少しはわかる。

私の名前は、ほんとはねぇさんの名前で、少女の感性を持ったまま大人になった母は、私を呼ぶたびに、亡くしたねぇさんを思い出してしまっていたことを。

私にねぇさんが居たことを、ずっと知らなかった私は、何が起こったのか、まったくわからずに、ただ、ただ、悲しかった。

母の中ではその時家族は4人で、妹が生まれ、弟が生まれてやっと、ねぇさんは死んでしまった事が現実になって、でも父が死に、心を閉ざした時には、いつか、同じ名前の私も居ないことになってしまった。

ねぇさんが居たことを、知ってから、私はすこしずつ母を理解する。そして、それを思いやり、寄り添って守ろうと力を尽くしていた父の心を。

紙の鯉のぼりは、結局泳ぐことは無く、帰ってきて異変に気付いた父が、次の日に買ってきた、小さな布製の4匹の鯉のぼりがベランダで泳いだ。

母は「ごめんね」って言ってくれて、私もホッとしたのだけれど、子供の日が近づくと、いつもなんだか悲しかった。



2005/05/02(月) side A : あ の 日
生まれて初めて 死にたいと思った

クラス替えの後、数日は普通に過ぎて、入院の間隔は少し開くようになってはいたけど、今ほどアレルギーに対しての理解はなくて、給食を食べない日のある私は、まだ子供な級友から奇異に見えたのは仕方なかった

発作が出ると、まず手持ちの吸入をこっそり使う。その頃はメジヘラーDだった

それでも止まらない時は手を挙げて、保健室でステロイドと気管支拡張剤の吸入をする。それでもダメなら病院へ運んでもらい、そのまま入院になることもまだ少なくなかった

治療してくれる先生の方針で、インタールを吸入してから体育にも出ていたし、手帳に薬の使用状況とピークフローの数値を書き込むのは当然の日課で、でも、少しずつ増えてきたサーフィン仲間の上級生や男子達、そして中学生や高校生や大人の人と、廊下や帰りの道で楽しそうに話していたのも、異端だったのかも知れないと今では思う。まだクラスと近所と塾だけが、生活の範囲で当たり前の年齢だった。早い子は、もう生理が始まり胸が膨らむ年ではあったのだけれど

半月ほど経って、少しクラスが交わり始めた頃、1日だけの入院から登校した私の机には、しおれた白い菊が汚いビンに生けてあった

周りを見回すと、目をそらす子とクスクス笑う子がいて、流しに菊を持って行って、洗面器で水切りし、ビンもキレイに洗ってから先生から見えない足元に置いた

昼休みには菊はピンと咲いていた

次の日、菊は花びらをむしられて椅子に散らしてあり、机には「バイキン女、出ていけ」「バイキンはクラスのめいわく」「病気を移すな」と大きく書いてあった。油性ではなかったので、箒で花びらを掃き、雑巾で机は拭いて、私は授業を受けた

そんな態度が、今ならかえって反感を煽ってしまうことはわかる。でも、私も子供だった

給食の時間、開いたお弁当に、食べることのできないおかずをかけられる。大好きだった真っ白いシャツは、お家に帰って気付いたのだけれど、背中にソースがかけてあった

箱に入ったカエルは、手に乗せて校庭の隅の茂みに放したし、今度はマジックで繰り返し書かれる罵倒の言葉に、家からベンジンを持って通うのが日課になった

親しいと思っていた友達も、積極的に参加してはいないようだったけど、遠巻きに眺めているだけで、それが一番悲しかった記憶がある。私は一人で学校に行き、一人で授業を受け、そして一人で帰った

背負ったD-BAGを後ろから掴まれ、後ろ向きに引き倒されるようになり、ころんだ私を蹴りはしないけど、靴で土や砂をかけて、笑いながら走り去る後ろ姿を見るのが日常になっていった

誰が扇動者かは判っていた。でも、何故なのかは解らなかった

ある朝、1時間以上早く学校に行き、見つからない場所に隠れ、それを知ろうとした

3人の人影は、「くさいくさい」と笑い合いながら、扉を開ける。持っているのは魚のアラのようで、「くさい女にぴったりだね」「身体の腐った女にぴったりだね」と囃しながら、きっといつものように机に文字を書く

扇動者は裕福な家の娘で、キレイだったしいつもキレイな服を着ていたし、身体も頭一つ大きかったし成績も良かった

「先生がヒイキしている。絶対カンニングしている。腐った女のくせに」

そんな言葉で、理由が少しずつ解ってくる

前のクラスからの申し送りで、私に病気があること、そのために給食をいつも食べることはできないこと、発作が出るかもしれないので少し注意すること、そんな話しが自己紹介もした最初の級活で先生からあった。きっとそれが「特別」に見えた

最初何度かテストを返してもらったときにその扇動者は、一応成績がいいと思われていた私のところへ来て、「何点だった?」って尋ねていた。私は尋ねなかったけど、正直にテストの点数は言った

それまで私は、私が何か悪い事をしたのだと思い込んでいた。何か理由があって、その理由に気付かない私に非があって、こんな毎日になったのだと思い、そんな自分が死ぬほど嫌だった。

死んだほうがいいとも思った。辛かったし

でもそうじゃなかった

インタールを吸ってから立ち上がって「何してるの?」って私は言う。それまで私はモンクも言っていなかったし、でも学校では泣くこともなかった

振り返った三人はギクッとした表情を一瞬だけしたけど「なんだよ、バイキン」「クサレ女、何かモンクがあるのかよ?」ってすぐに居直って、扇動者がシャツの襟を掴み二人が私を囲む

護身術として知っていた私は、人指し指一本だけを掴んで、でも折れないように注意はしながら捻って、その子はあっけなく床に倒れこむ。持っていた魚のアラの袋が裂けて、その子の髪と床に散らばる

「離せよ、バイキン。腐ったのが移る!」

二人は私を何度か殴り、蹴り、手を掛けて引き離そうとするけど、その度に、倒れた子が大きな悲鳴をあげるので、少し離れて私とその子を見る形になる

「私は病気だよ。でも他人には移らない。それはホントだし、ほんとはわかってるんでしょ?」

背中に馬乗りの形で私は話す。指を握ったまま

その子は突然大きな声で泣き出して、コクコクと頷く

手を離して立ち上がり、二人には「もう止めてね」って頼んだ。そして、その子はその日学校を休み、私は床の掃除をしてから机の文字を消し授業を受けた

朝の異変は、昼休みにはもうクラスに広がっていて、ビミョウな雰囲気でその日は終わった

次の日、机には何も書かれていなくて、アラもカエルもその他の汚物も無かった。二人からは、言い訳に満ち溢れた連名の手紙を渡され、その他何人かからも謝られた

遠巻きにしていた何人かは私に話しかけるようになり、普通の暮らしが戻ってきた。でもその世界は、前とはなんだか違って見えた

今は、その事に感謝さえしている

もし、あんな事が無くて、あの日が無ければ、父が死んだとき私は一人で立っていられなかったと思う

いいことか、そうでないかは判らないけど、今の私はあの日出来た。


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