サーシャ親父の独りよがり日記
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2006/12/23(土) 消費されるもの
テレビドラマ、「僕の生きる道」が終わりました。
きっと、最初の「僕の生きる道」の草薙君先生編のせりふを覚えてる人は、そんなにいない気がする。
ドラマ好きなうちの家族にも聞いたけど、いいドラマだったねとは言うけど、印象だけで、せりふを覚えてたりはしてない。

死んだあとの回想シーンのナレーションで、主人公の草薙君は言う。
「僕は、今まで、自分の生きてきた28年間をずっと否定してきた。
でも、死ぬのがわかって、この1年間を大切に生きてきた。
そしたら、今まで否定してきた自分の28年間が、とてもいとおしく思えてきた。」
と。


四国の女子ボート部のドラマの中で、主人公の悦ねえが失恋をし、石田ゆり子のすてきなナレーションが、

「でもね、思うんよ。
ガソリンやて

涙も
辛い思いも
口惜しい思いも
劣等感も

マイナスの気持ちは
全部
次のレースの
ガソリンになるんよ

だから
怖がらなくてええんよ

傷つくことを
怖がらなくてええんよ」
と。

こんなにも、こんなにも素敵なせりふが、たくさんある。
でも、テレビは、新しいもの、新しいものをどんどん作り出す。
古いものは、どんどん消費される。

社会は、きっと私たちのある面で縮図なんだろうと思う。

私は、自分の感受性が低くならないように、しっかり覚えていたいと思う。

2006/12/22(金) 容貌
昔、アメリカの大統領リンカーンは、有力者からある人物のスタッフ登用への依頼をうけました。

その紹介された人物との面接を終えた後、当の有力者に会ったリンカーンは、こう言った。
「顔が悪いから、採用はしません。」
「人間は、40年も生きてきたら、その生き方が顔に表れる、美醜じゃなく、いい顔わるい顔はその人の人格そのものである。」という理由で、採用を断ったそうです。

ある本に、こんな事が書かれていました。
筆者は、大学(女子大)で長いこと教えているうちに、「寮生」と「通学生」の間の微妙な容貌の違いに気づいたそうです。
大都会圏を経由して通学してくる学生、「通学生」は、総じて「きりり」とした引き締まった顔立ちをしている。
それに比べ、「寮生」は、「おだやかな」容貌を獲得する。

この違いは、外界からの刺激の大きさに関係していると、筆者は述べます。
騒音や他人との接触など、嫌な高刺激に満ちた都会の中を生きていく為には、自分を守る為に、自分の感受性を低くし、硬い殻を作る。
反対に、季節の花々、小鳥のさえずり等の事前の恵みがあり、クラシック音楽やアリアなどの歌声がある、学内に居住する「寮生」は、自分の感受性を高くすることが、その生活にとって有利をなる。

そんな環境との関係が、彼女たちの容貌を作っていくと語っています。
これは、その女子大学の学生たちにも納得され、支持されたお話のようでした。

私は、これを読みながら、リンカーンの話を思い出しました。
生き方が、顔を作り、環境が容貌を作る。

私は、時々不安になります。
自分はどんな顔を、どんな容貌をしているんだろうかって。
もし、リンカーンにあったら、きっと彼には採用を断られるんだろうけど、でも、彼はもう死んじゃってるから、ま、いっかちゅうことにします。

2006/12/01(金) 弱虫にも
ここでも書いたことが多分あると思う、パブロの言葉、
「私には善なるものが宿っていない。善をしようとする意思はあるが、する力がない。
欲している善をしないで、欲していない悪を行っている。
これが私の内に宿っている罪である。」
これは、キリスト教の原罪論からと思われるが、これをこうは解釈できないだろうか?

つまり、人間の多面性の問題と。
どんな人間でも、神のような素晴らしい気持ちを抱く瞬間と悪魔のような邪悪な気持ちを抱く瞬間、そのはざまの中でバランスをとり、揺れ動くと。

こんなことを思っていると、こんな文章にぶつかる。
「人間の人格というものは一重であるはずがない。
多重人格の方が当たり前。
近代になって、それが病気ということになる。近代法体系というもの、一貫した人格を前提にして、成立している。
もし、多重性を認めたら、「去年の俺は今年の俺じゃない」と契約行為が成り立たない。
犯罪を起こすと、昔は魔がさしてとか、気が触れてとかいう言い方があった。
人間には、「元気」とか「勇気」という「気」というものがあって、「気違い」という違った現れ方をしたり、いろいろな現れ方をする。
その「気違い」を精神病者という病人と決め付け、人格の基本的多重性を認めないのが近代である。」

「自我の不安に対して、ものすごくいい方法は、人格の多重性を喜んで認め、毎年生まれ変わる、毎日生まれ変わること。
しかし、これができない。一貫性を要求する近代のしがらみは強固であるから。
忘れることが、ニーチェによれば、一番の美徳。」

で、何が言いたいかというと。
あのパウロでさえ、自分の情けなさを嘆き、えらい人が、人格の多重性を声高らかに、歌い上げる。
したら、わしみたいに、なさけない、負けたくないのに、戦いもせずに逃げるばっかりの弱虫にも、少しは立つ瀬があるかなって、思う。

にしても、不安感ちゅうのは、ほんとうに人を悩ませる強大なものなんだなーあ。
わし、そんな強大なもんとは、絶対闘わんと、心に誓う今日でありました。
チャンチャン。


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