|
2006/12/01(金)
弱虫にも
|
|
|
ここでも書いたことが多分あると思う、パブロの言葉、 「私には善なるものが宿っていない。善をしようとする意思はあるが、する力がない。 欲している善をしないで、欲していない悪を行っている。 これが私の内に宿っている罪である。」 これは、キリスト教の原罪論からと思われるが、これをこうは解釈できないだろうか?
つまり、人間の多面性の問題と。 どんな人間でも、神のような素晴らしい気持ちを抱く瞬間と悪魔のような邪悪な気持ちを抱く瞬間、そのはざまの中でバランスをとり、揺れ動くと。
こんなことを思っていると、こんな文章にぶつかる。 「人間の人格というものは一重であるはずがない。 多重人格の方が当たり前。 近代になって、それが病気ということになる。近代法体系というもの、一貫した人格を前提にして、成立している。 もし、多重性を認めたら、「去年の俺は今年の俺じゃない」と契約行為が成り立たない。 犯罪を起こすと、昔は魔がさしてとか、気が触れてとかいう言い方があった。 人間には、「元気」とか「勇気」という「気」というものがあって、「気違い」という違った現れ方をしたり、いろいろな現れ方をする。 その「気違い」を精神病者という病人と決め付け、人格の基本的多重性を認めないのが近代である。」
「自我の不安に対して、ものすごくいい方法は、人格の多重性を喜んで認め、毎年生まれ変わる、毎日生まれ変わること。 しかし、これができない。一貫性を要求する近代のしがらみは強固であるから。 忘れることが、ニーチェによれば、一番の美徳。」
で、何が言いたいかというと。 あのパウロでさえ、自分の情けなさを嘆き、えらい人が、人格の多重性を声高らかに、歌い上げる。 したら、わしみたいに、なさけない、負けたくないのに、戦いもせずに逃げるばっかりの弱虫にも、少しは立つ瀬があるかなって、思う。
にしても、不安感ちゅうのは、ほんとうに人を悩ませる強大なものなんだなーあ。 わし、そんな強大なもんとは、絶対闘わんと、心に誓う今日でありました。 チャンチャン。
|
|
|