サーシャ親父の独りよがり日記
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2006/05/26(金) 美しさ
ある方に言われたことがあります。
何かをする時の行動基準として、それをすることが美しいかどうかを考えると間違わないよって。

どちらが美しいか?
簡単なようで、簡単じゃないようで、・・・・・。

そんで、俺、最近、心と身体の関係をよく考えることがある。
そして、その時に必ず付いてくるのが、身体使いのこと。
で、からだつかいということで、気になってくるのが、踊りの美しさちゅうこと。

神々の島と言われるジャワの踊りの美しさ。
タイの舞踊の美しさ。
アロハの美しさ。

で、アロハは、古代から人々の中に受け継がれてきた、「心のあり方」を示しているらしい。

A=akahai(優しさとおもいやり)
L=lokahi(調和と融合)
O=olu olu(喜びをもって柔和に)
H=ha aha a(ひたすら謙虚で)
A=ahonui(忍耐と我慢)

というように、他者に対する友愛と尊敬の心を言葉にしたものらしいです。

そして、見るとはなしに、HNK教育のピアノレッスンの番組が目に止まりました。
ピアノを弾く指の美しさ。
それを見て、楽器を奏でてる姿の美しさに想いが至りました。

そして、人を感動させるものは美しいって。

ピアノの先生は、そのもっているイメージを、生徒に言葉で伝えます。
優しくとか、柔らかくとか、色彩豊かにとか、純粋にとか、透明感をとか。
そして、最後に音楽をよく伝えるためには、本を読み、絵画を見なさいとアドバイスします。

こんな言葉が、イメージの言葉なのに、生徒にはきちんと伝わって、そのピアノの曲が変わってくる。

もちろん、音楽音痴のわしの反応は、ふーーん、なんとなく前よりいいじゃん、ってな感じ。
あ、その先生は、世界的に有名なピアニストで、生徒ももちろんかなりな腕前。

わからんけど、なんとなく想像しちゃう。
きっと、日本の伝統芸能もこんな風なイメージの伝え合いをするのかなって。

身体使いは、こうして、頭で理解するんじゃなくて、身体で理解してくんだなって。
腑に落ちるまで、身体使いの練習をするんだなって。

そして、サーシャの空想はさらに続く。
分からなくても、やってみる。
そして、習慣にしてみる。
そしたら、きっと何かが変わってくるんかな。

なーーーーーーんて。

2006/05/24(水) 分かることって
わし、最近強く思うんです。
例えば、40年間生きてきた人のお話を、何年かかけて聞かせていただくとする。
でも、それでその方を理解する、その方の気持ちが分かることなんて、とうていできないと思うんです。
どれほど、そのお話が正確だったとしてもです。

癒しの人として、全国にたくさんファンがいる、森のイスキアの佐藤初女さんの言葉です。
『わずか時間で、自分なりに相手の内面を創造するのは、危険なこと。こうしなさいとは、めったに言わないの。』

そして、神はソクラテスを、知らないということを知っているという理由で、当代一の知者であると褒めました。

分かることは、あくまで主観的なものです。
自分が分かることです。
だから、人の気持ちを分かるなんてのは、とっても傲慢なことのように思うのです。

感じることが、なんか、分かることよりも大切なことのように思うのです。

佐藤初女さんの言葉です。
『その人の言うことが正しいのか、わたしの言うことが正しいのか、それは誰にも分からないこと。それを判断できるのは神様だけです。』

だから、うちらは正しいことは、神様にお任せして、楽しいことを、笑いを追及します。
ちゅうわけで、論理的に正しくないのも、100点ちゅうことです。(笑)

わしの場合、いろいろ楽しいことにチャレンジできるから、ついてるなーああああああ。

2006/05/06(土) ヘレン・ケラーさんから思う事
もし、人がヘレン・ケラーのように、目が見えない、耳が聞こえないという状況下で、人間と出会ったとする。
人間ってのは、どんなだろうなーあって、分かろうとする時、自分の手で触って判別するしかない。

髪の毛があって、目が二つで、鼻があって、耳があって、口があって、手が二本で、足も二本。
黒人だろうが、白人だろうが、黄色人種だろうが、みんな同じだなーあって、間違いなく思う。

で、次は、耳は聞こえないけど、目がみえるようになったとする。
すると、きっと、髪の毛の色の、質の違い、肌の色の違い、目の、鼻の、色々な違いに気がつく。
おんなじだったものが、目が見えるようになったでけど、全然違うように見えてくる。

そして、耳が聞こえるようになる。
すると、白人で、同じだと思っていた人間の言葉の違いに、アジア人の同じ顔に見えたのに、中国語や、韓国語や、日本語なんかを喋ってる人間の違いに、気がつく。

もともと、違っていたのに、目が見えない、耳が聞こえない時は、同じに見える。
こちらが、目が見えたら、相手の違いが見えてくる。
耳が聞こえたら、もっと違いが見えてくる。
違いを分からなかったのは、自分の方にその責任があったのではないだろうか。

そして思う。
自分は、ヘレン・ケラーさんと、どうなんだろうーって。
片目だけど、目は見えてるし。
耳は、遠いけど、聞こえてる。
でも、ほんとうに、見えて、聞こえているのだろうか?
心が、見える方に、聞こえる方に、向いているのだろうか?

目薬、がんがんつけてーーーーーー、耳掃除しよーーーー、
って、思いました。

2006/05/02(火) 自分の置き場所
明るい所から、暗い所は、見えない、か、または、見えにくい。
暗い所から、明るい所を見ると、まぶしかったりする。

同じ自分なのに、どこに自分を置くかで、そんな風に、見え方まで違ってくる。

人間のおメメさんは、教えてくれるんかな。
暗い所から、いきなり明るい所にでたら、あかんよって。
徐々に、おメメを慣らしていこうねって。
明るい所から、暗い所に行く時も、そう。
いきなり動いたら、転んで、怪我しちゃう。
徐々に、徐々にって。

思ってると願いは叶うもんで、坂田道信先生にお会いすることが出来ました。
甲高い声で、物を買ってもらって、ありがとうを言っても、それで半分だよおおおおおって。
感謝するのは、感謝しても、したりない。
だから、感謝する。
色々な人に出会い、ご縁を頂き、素晴らしい人、すばらしい言葉、素晴らしい風景、素晴らしい物に、出会いを頂く。

いろいろな人とのご縁の中で、生かされている。

ありがとうございます。

って、ここで終われば、いいんだろうけど、どうしても、一言付け加えたくなる。

暗い場所、明るい場所っても、わしみたく、瞳孔開きっぱなしで、そりゃあ、いかんなって、夕方4時モードに、瞳孔の具合が調整されてる人の場合。
徐々にっても、そうはいかんのじゃああああああああ。
そんな絵に描いたように、簡単に、はいそうですかって、いきゃああああ、人生苦労せんのポットおおおおおおお。
(ポット、は、ジャーの変形)(これが、フランス流ギャグ、パチパチパチイイイイ)

PS:坂田道信先生・・・森信三先生から教えを受けたハガキ道の伝道者、全国のJCや商工会、各団体からの依頼で講演をされている方。広島の片田舎在住。個人で、日本で一番ハガキを購入。年賀はがき代、100万円を越えるらしい、ひぃぇぇぇぇーーーーー。


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