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2006/06/08(木)
見たり、聞いたり(古典から)
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「孔子は川上にいては水の流れを見、「行く者はかくの如し」といって嘆き、そうろう川を過ぎて、子供が「水澄めば冠を洗い、にごらば足を洗わん」と歌っているのを聞いて感心し、・・・・・・このように聖人の遊びは、いずれも学問でないものはない。」
志のある、感度の高い人は、どんなことにも学びを発見するらしい。 歌を聴いては、その素晴らしさに涙したり、食べ物に自然のありがたさを感じたり、五感に触れるものすべてから学ぶらしい。
小話から、 「主人が小僧に、わしはでかけるから金魚を見張っていろと命じた。そして、主人が帰ってきたが、金魚はいない。 わけを聞くと、見張っていたら、隣の猫がきて、金魚をくわえて行ってしまったという。 見張れと、といわれたが追えとは言われていなかった。と、小僧は言った。」
ちょっと昔の話として、こんなことがある文の中にあった。 「○○さんが、私は苦労したので、今でもゴマ粒一つ落としても拾って食べないと気がすまない、と言った。 すると、それを聞いていた人の一人が、「○○という人は年はとっても目は丈夫だったのですね」と言った。
見たり、聞いたり。 その人の心持で、見かた、聞き方は、変わるみたいです。
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