サーシャ親父の独りよがり日記
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2006/08/29(火) 苦しみのこと
渋沢栄一さんの経世済民、苦しんでいる民を救う。
これは、経済、つまりお金や物質のこと。
そして、苦しみのことから、もともとは仏教用語で、一般に使われるようになった、四苦八苦という言葉を思い出しました。

生老病死(しょうろうびょうし)の4つの苦しみ、四苦。
それに、さらに4つの苦しみを加えた八苦。
両方合わせて、人間のあらゆる苦しみのことを意味する、四苦八苦。

愛別離苦(あいべつりく)・・・愛する人と別れなければならない苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)・・・恨み憎む人と会わなければならない苦しみ。
求不得苦(ぐふとっく)・・・求めているものが得られない苦しみ。
五陰盛苦(ごおんじょうく)・・・人間が持っている5つの陰(色・受・想・行・識)から起こる本能的欲求、これらに執着する苦しみ。
色は、肉体からの苦しみ、受は、ものごとへの感じ方、受け止め方からの苦しみ、想は、思い巡らすことからの苦しみ、行は、行動からの苦しみ、識は、経験・知識からの苦しみを意味するそうです。

だから、どうしたあああああって、ことなんだけど。(笑)
知ってることは、知らないことに、優るらしいです。
お釈迦様でも悩んだ、苦しんだ苦しみです。
うちら、凡人が悩むのは、なーーーんも、当たり前。
苦しみを前向きにとか、明るくとか。
そんな、できんちゅうの。

で、知ることが、第一歩。
そんで、できんけど、練習。
フリをしてみる。
フリのフリ。
フリのフリのフリのフリのフリのフリ・・・・・。
お釈迦様での悩んだんだって、反省せんで、また、練習。
100年くらい練習すれば、きっとできるようになる。
かもおおおお。
(by マギー)

2006/08/27(日) 「見守る」、「待つ」に関して
ある本を読んでいたら、ビックリする表現に出会いました。

私が尊敬してやまない、丸山敏雄伝である、「一粒の麦」からの抜粋です。

「待つという、この言葉の持つ味わい深さには、驚くばかりだ。自分の価値観を相手に押し付けり、自分の価値観で相手を裁くのではなく、相手もまた変化し成長していく過程あると見て、見守ることが出来る。
育む姿勢があるからこそ、相手をやわらかく包み、「待つ」ことができる。」
という、文章です。

丸山敏雄伝、「一粒の麦」、先日8度目の読破を終えました。
素晴らしい本です。

渋沢栄一、「論語とそろばん」、日本の近代の産業育成に力を注いだとは、ちょっとだけ知っていましたが、今頃、自伝を読ませて頂きました。
なんで、今頃と、知るのが遅すぎとちょつぴり口惜しくなりました。

その中に、経世済民(けいせいさいみん)、乱れた世の中をととのえ、苦しんでいる民をすくう、という言葉がありました。
それが、経済の言葉の語源だそうです。
経済には、お金儲けでなく、そういうヒューマニズムが根底にあるのだそうです。

渋沢栄一さんのような素晴らしい方を本と通して、少しだけ知ることができると、なんと自分はものを知らないものかと、思いしらされます。
でも、知ることのあまりの少なさを嘆くのではなく、心を引き締めて、聖賢の書を読ませて頂きたいと思います。
「一人の卓れた思想家を真に読みぬくことによって、一個の見識はできるものなり。」

と、同時に、「口頭の聖賢、紙上の道学者」という言葉も教えて頂きました。
読書は自己啓発の手段だと思われているが、時により単なる時間つぶしの場合になることもある。
実践がなければ、知っていることは何の役にもたたない。

それも心におき、道に落ちているゴミを拾う、フリを、そして真似をしてみたいと思っています。

「読書は、そのまま思索であり、先人に導かれながらの求道である。
弱い自分に妥協しがちな自分、大衆の後ろに隠れてしまいがちな自分を、叱責しムチをあててくれ、個としての確率を促してくれる。」(森信三)

2006/08/18(金) 言霊のこと
言霊、言霊って、いろんな人が、この言葉を使う。
で、使うような人は、ま、わしをのぞき、言葉をとても大切にしていて、その人の言葉には、説得力がある場合が多い。

昔は、名前というのは、簡単に相手に教えるもんじゃなくて、ごくごく親しい人にしか、教えなかった。
訳の分からん人間に教えると、呪われたりしたらしい。

今でも、なにか大事な予定がある前とかに、誰かがその予定を狂わすような事を言うと、縁起でもないこと言うなと、ひんしゅくを買ったりする。

どちらの例にも言えるのは、言った事が実現するということ。
これが、言霊。

でも、周りを見渡してみると、いくら言霊だと言っても、同じ事を言っても、感銘を受ける人、ふーーんと流されてしまう人、おいおいとひんしゅくを買う人。
そんな風なことがある気がする。

言葉が、その人の物になっているかどうか?
その人が、してきた経験がどうか?
何の為に、自分の為にそれを言っているか、人の為にそれを言っているかどうか?
そんなことが、言葉に力を与えるかどうかなのかなって、思った。

何を言うかじゃなくて、誰が言うか?

そんな誰かに、わたしはなりたい。
(石川啄木風)

2006/08/14(月) 感恩
恩を感じる気持ち、ありがたいなーあという気持ち、私は亡くなったばーちゃんから、神様はどこにでもいる、便所にも、台所にも、いろんなところにいるんだと、小さい時言われた事を、たまに思い出したりします。

だからって、私が、いつでも、お天道様に恥ずかしくない行動をしてきたかって言うと、大きな×が付きます。(自信をもって断言できます)

知っている人は知っている、「言志四録」の中に、『太上(たいじょう)は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経(けい)を師とす。』という言葉があります。
意味は、最高の人間は天地自然から学び、その次のクラスの人間は人から学び、その次のクラスの人間は、本から学ぶ。自分の感受性が鋭ければ、自分をとりまく自然、足下の出来事が、無上のわが師である。
というようなことです。

でも、同時に、確か、論語かなにかには、
『天の利は、地の利にしかず。地の利は、人の和にしかず。』という言葉もあります。

片っ方では、天が人よりも上位にきて、別の片っ方では、人が天の上位に来る。
私は、昔はこういう読み方をしました。
矛盾じゃないかと。

でも、論語や古典は、論語なら、2000年以上にわたりたくさんの人の検証を経てきています。
正しさが、証明されているのです。
私の疑問なんぞ、ちゃんちゃら、おかしいのですよね。

どちらも正しい。
正しいのは、一つではない。(言葉の定義を除いても)
心を無にして、素直に学ぶこと。
ここにこそ、太上は天を師としの、太上たる所以があるのだなって、思いました。

ま、わしゃあ、太るのはいやだから、細上を目指すかな、ってかあああああああ。

そんで、細上としましては、恩の感情は、ありがたいという感情は、人と人との間にだけあるのではない、人と物との、人と自然との間にだって、成立するんじゃないかって。

で、考えてみると、物を粗末にするような人、自然を粗末にするような人は、きっと、人との関係をいつか粗末にする。(わしのように)
天下国家を論ずるならば、まずは足元の実践。
自分の身の回りの物、自然を大切にする。
そこが、スタートのような気がします。

ちゅうわけで、わしは、これから出世して、末は博士か大臣になるんだから、足下の実践、靴下から大切にしよーーーーっと。
ぐふふふ。

2006/08/11(金) 心を体のこと(弁護士さん編)
先日、ある弁護士さんからお話を聞かせてもらいました。

高校3年生になり、いよいよ真剣に進路をというその時。
よくある話、父親が連帯保証人となっていたことで、一挙に経済的苦難を体験。
その体験で、法律家になろうと決意する。

しかし、司法試験の困難さの現実を目にして、あきらめかけるが、家族の力になるためには、サラリーマンでは無理だと、司法試験にかける決心をする。

そして、試験におちること、10回、11回、・・・。
ようやく、大学を出てから15年目にして、司法試験に合格。

何度も、何度も試験に落ち続け、自己嫌悪、挫折感で、出口がないように思った。(よからぬ考えも)
そして、ある時期から、試験が近づいてくると、体に影響が出てくるようになった。
不整脈、足のむくみ。
それは、試験がすぎると、うそのように、治ってしまった。

今でも、試験に落ちた夢をリアルに見るそうです。
何度もみる同じ夢のいくつかは、妹とか友人とかが、お前、何回も落ちてるんじゃーあ、代わりに、わたしが、俺が、受けるよと言って、試験を受け、一発で合格。
または、色々なバージョンで、何度も、何度も、落ちた夢を見るそうです。

そして、今日も、こんな話しちゃったんで、間違いなく今晩は、落ちる夢をみますと、笑いながら言っていました。

もし、そんな話を聞かなかったら、いわゆる社会のエリートの弁護士さん。
自信満々で、弱さなんか見せない人みたいに思っていまう。

でも、心のストレスが、体にでることを身をもって体験している。
約束しました。
もし、なにかの機会があったら、躓いているお子達へ、この話をしてくださいねって。

と、同時に、この先生は、10年でも、あきらめなかったことも、教えてくれたように思いました。

だから、うちらは、心をなんとかすることなんかできないから、体を元気にすることから始めたたいと、思うのです。

2006/08/07(月) 小さな悩み
果たして悩みごとに、大きいとか小さいとかあるんでしょうか?

俺、人は小さい事では悩まないって思うんです。
本人にとって、その問題が大きいから悩む。
他人から見たら、いくら小さく見えようと、それはその他人さんにとって、小さいという話で、悩む、当の本人のにではない。

いわゆる小さい悩みと本人が言う場合にも、簡単にいうと二通りあって、悩みの解決の結果が、ま、どっちでもいい場合の一つ。
そして、もう一つが、自分には大きい問題なのに、『こんな小さな事で悩むなんて、・・・・』、という場合で。
その場合は、その小さなって事が、悩みの質をさらに大きくしてしまうような気がするんです。

人は、小さな事では、悩まない。
大きいから悩む。
そんな風に、思うんです。

人は、朝起きて寝るまで、選択の連続です。
何を着て、何を食べ、どこへ行き、誰と会う。
そんな選択を、意識的、無意識的にしているような気がします。
意識的は別にして、無意識の選択、その選択の何を基準にされているのでしょうか?

私は、それは習慣によってするような気がしているのです。
すると、よい選択をする為には、よい習慣をつけることが、とても大切かなって、思うのです。

イギリスの哲学者の言葉に、「最初に人が習慣を作り、そして、その習慣が人間を作る」と言う言葉があります。

よい習慣。

さて、どうやって、作っていきましょう。

それには、まず、何がよい習慣かをしること。
そして、それを実践してみること。
それが、唯一の方法のような気がします。


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