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2006/08/14(月)
感恩
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恩を感じる気持ち、ありがたいなーあという気持ち、私は亡くなったばーちゃんから、神様はどこにでもいる、便所にも、台所にも、いろんなところにいるんだと、小さい時言われた事を、たまに思い出したりします。
だからって、私が、いつでも、お天道様に恥ずかしくない行動をしてきたかって言うと、大きな×が付きます。(自信をもって断言できます)
知っている人は知っている、「言志四録」の中に、『太上(たいじょう)は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経(けい)を師とす。』という言葉があります。 意味は、最高の人間は天地自然から学び、その次のクラスの人間は人から学び、その次のクラスの人間は、本から学ぶ。自分の感受性が鋭ければ、自分をとりまく自然、足下の出来事が、無上のわが師である。 というようなことです。
でも、同時に、確か、論語かなにかには、 『天の利は、地の利にしかず。地の利は、人の和にしかず。』という言葉もあります。
片っ方では、天が人よりも上位にきて、別の片っ方では、人が天の上位に来る。 私は、昔はこういう読み方をしました。 矛盾じゃないかと。
でも、論語や古典は、論語なら、2000年以上にわたりたくさんの人の検証を経てきています。 正しさが、証明されているのです。 私の疑問なんぞ、ちゃんちゃら、おかしいのですよね。
どちらも正しい。 正しいのは、一つではない。(言葉の定義を除いても) 心を無にして、素直に学ぶこと。 ここにこそ、太上は天を師としの、太上たる所以があるのだなって、思いました。
ま、わしゃあ、太るのはいやだから、細上を目指すかな、ってかあああああああ。
そんで、細上としましては、恩の感情は、ありがたいという感情は、人と人との間にだけあるのではない、人と物との、人と自然との間にだって、成立するんじゃないかって。
で、考えてみると、物を粗末にするような人、自然を粗末にするような人は、きっと、人との関係をいつか粗末にする。(わしのように) 天下国家を論ずるならば、まずは足元の実践。 自分の身の回りの物、自然を大切にする。 そこが、スタートのような気がします。
ちゅうわけで、わしは、これから出世して、末は博士か大臣になるんだから、足下の実践、靴下から大切にしよーーーーっと。 ぐふふふ。
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