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2006/08/27(日)
「見守る」、「待つ」に関して
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ある本を読んでいたら、ビックリする表現に出会いました。
私が尊敬してやまない、丸山敏雄伝である、「一粒の麦」からの抜粋です。
「待つという、この言葉の持つ味わい深さには、驚くばかりだ。自分の価値観を相手に押し付けり、自分の価値観で相手を裁くのではなく、相手もまた変化し成長していく過程あると見て、見守ることが出来る。 育む姿勢があるからこそ、相手をやわらかく包み、「待つ」ことができる。」 という、文章です。
丸山敏雄伝、「一粒の麦」、先日8度目の読破を終えました。 素晴らしい本です。
渋沢栄一、「論語とそろばん」、日本の近代の産業育成に力を注いだとは、ちょっとだけ知っていましたが、今頃、自伝を読ませて頂きました。 なんで、今頃と、知るのが遅すぎとちょつぴり口惜しくなりました。
その中に、経世済民(けいせいさいみん)、乱れた世の中をととのえ、苦しんでいる民をすくう、という言葉がありました。 それが、経済の言葉の語源だそうです。 経済には、お金儲けでなく、そういうヒューマニズムが根底にあるのだそうです。
渋沢栄一さんのような素晴らしい方を本と通して、少しだけ知ることができると、なんと自分はものを知らないものかと、思いしらされます。 でも、知ることのあまりの少なさを嘆くのではなく、心を引き締めて、聖賢の書を読ませて頂きたいと思います。 「一人の卓れた思想家を真に読みぬくことによって、一個の見識はできるものなり。」
と、同時に、「口頭の聖賢、紙上の道学者」という言葉も教えて頂きました。 読書は自己啓発の手段だと思われているが、時により単なる時間つぶしの場合になることもある。 実践がなければ、知っていることは何の役にもたたない。
それも心におき、道に落ちているゴミを拾う、フリを、そして真似をしてみたいと思っています。
「読書は、そのまま思索であり、先人に導かれながらの求道である。 弱い自分に妥協しがちな自分、大衆の後ろに隠れてしまいがちな自分を、叱責しムチをあててくれ、個としての確率を促してくれる。」(森信三)
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