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2007/02/07(水)
神様
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誰かの身に、例えば次々と不幸が押し寄せる。 次々襲う災難に、人は、神も仏もあるもんかと、不満を口にする。 なんで、私が、なんで、私だけがって。
私は、これだけ慎み深く暮らし、他人にも施しをしたり、誰にも迷惑をかけることなく、暮らしてきた。 もちろん、信心深く、神を崇めて、神の教えも守ってきた。 なのに、どうして神様は、こんな仕打ちをするのか???? たしか、聖書のヨブ紀に、そんな話があったような気がする。
私は、思うんです。 神様って、そんなに便利なものなんかなーあって。
私は、キリスト教徒でも、仏教徒でも、イスラム教徒でも、ヒドゥー教徒でも、ゾロアスター教徒でも、ブゥドゥー教徒でも、神道教徒でも、ハラホレヒロ教徒でも、グヒヒヒヒ教徒でも、おおおおおいいいい、誰か、止めろオオオ、ありません。
でも、宗教心は心の奥に、顕然としてあります。 名づけるなら、天の神様とでも、いうもんでしょうか。
神を祈るのは、自分に利益を求める為でしょうか? 私は思うんです。 今、自分におこっている出来事の意味は、本当に自分に理解できるのだろうかって。 そりゃあ、短期的に見れば、自分だけの都合で考えたら、苦しいことは、例え、人格が磨かれるだなんだいっも、なるべく避けたい。 でも、現実に、苦難が自分を襲う時、おいおい神様ああああああ、って、神様に文句を言うのは、どうも、違うような気がするんです。
自分に都合のいい時だけ、神様を持ってきて、私には、神様のご加護がある。 そんで、都合が悪くなったら、おいおい神様って、文句を言う。
そんなんが、神様だったら、宗教者ってのは、便利なもんだなああああって、思うんです。
自分が、どんな暮らし方をしているかなんか関係ない。 理不尽が、理不尽に思えることが、自分に降りかかった時こそが、人としても善性を試される時じゃないかなって思う。
分かる、分からないじゃなく、そんな時にも、迷うことなく、自分は誰かを恨むことなく、神様に、感謝の言葉を述べさせていただく。 そこにこそ、人の素晴らしさが現れるのじゃないかなって思う。
そんな風に考えたら、誤解を恐れず言わせてもらうと、それへの入り口、つまり、苦難への入り口を作ってくれた人、もの、自然に、素晴らしい意味を見出せる気がする。
どんな災難だって、どんな事故だって、例えば、人の不幸なでき事だって。
もちろん、これは、人が誰かに言うことじゃなくて、自分が気づくことのような気がする。(って、あんた、言ってるじゃんかああああってか)
ま、わしの場合は、思うだけで、自分ができるってことじゃないないんで、勘弁してください。
神様、わしはもう、苦難はいらんので、よろしゅうううう、たのんます。(サーシャさん、あんた、たいした苦難もしとらんくせにって、誰かに言われんうちに、自分で言うときますうううううう。)
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