サーシャ親父の独りよがり日記
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2007/08/23(木) 相田みつをさんから
私は、ここやあそこで、人様に分かったようなことを言う。
得意がる時もあれば、言っている頭の隅に相田みつをさんの詩が浮かんでくる時もある。

「そっとしておいて」
どうかことばを
かけないでください
ただ そっとしておいてください
わたしのことを
ほんとに思って
くれるならば

どうかもうなんにも
言わないでください
どうか黙っていてください
わたしのことを
こころから考えて
くれるならば

いまのわたしには
どんなことばも
どんな慰めごとも
役にはたたないのです
ことばをかけられると
それだけで心の傷が
痛むんです

ただそっとしておいてください
ただ黙って
遠くから見ていてください
いまのわたしには
それが一番いいんです
一番ありがたいんです

どうかなんにも
しないでください
ことばをかけないでください
ただ そっとしておいてください


「そっとしておく」
余計なことだったかな
うん、余計なことだったな
頼まれもしないのに
勝手に先回りして・・・・・

こっちは親切のつもりで
やったことだけれど
当人にとっては
余計な<おせっかい>だったかも
そっとしておくことが
一番よかったのに

親切という名のおせっかい
そっとしておく思いやり
慈善という名の名の巧妙な偽善

まだ青い穂の上をわたる
風の行方を見ながら
ひとりつぶやく朝でした

**************************

一番大好きな相田みつをさんの「詩」です

「つまづいたおかげで」
つまづいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました

あやまちや失敗をくり返したおかげで
少しずつだが

人のやることを 暖かい目で
見られるようになりました

何回も追いつめられたおかげで
人間としての 自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました

だまされたり 裏切られたり したおかげで
馬鹿正直で 親切な人間の暖かさも知りました
そして・・・・・
身近な人の死に逢うたびに
人のいのちのはかなさと
いま ここに
生きていることの尊さを
骨身にしてみて味わいました

人のいのちの尊さを
骨身にしみて 味わったおかげで
人のいのちを ほんとうに大切にする
ほんものの人間に裸で逢うことができました

一人の ほんものの人間に
めぐり逢えたおかげで
それが 縁となり
次々に 沢山のよい人たちに
めぐり逢うことができました

だから わたしの まわりにいる人たちは
みんな よい人ばかりなんです

************************

でもわたしに似合うのは、

「或ときの顔」

かねもおんな
も名誉も
地位もなんにも
いらねえよう
な顔をする

*************************

うそは
いわない
こころに
きめて
うそを
いう

****************:::

なんです。

*************************

背伸びする
わたし
卑下する
じぶん

どっちも
いやだな

*************************

2007/08/21(火) プラマイゼロ
先日、私の私生活をよく知るある人が私に言いました。
「××(私の本名)さんの人生って、波乱万丈ですよね。」って。
私は、その方に言いました。
「○○さん、○○さんの人生だって、波乱万丈でしょうが。人の人生は一冊の本になる。波乱万丈じゃない人生を送る人って、いないんじゃないでしょうか?
苦しさも喜びも、その方の基準で感じるものですよね。
ある人には、苦しいことでも、ある人には苦しくない。

いつも、2000メートルの高地に暮らしている人には、2000メートルの山に登るのは、なんでもないこと。
でも、100メートルの高さに暮らしている人が、いざ2000メートルの山に登ろうとしたら、きっと大変なことだと思う。

悲しみも、苦しみも、楽しみも、喜びも、比べてみたってしょうがない。
人の基準は千差万別。
その基準には、正しいも間違いもない。
だから、どの人の人生だって、正しいもなければ、間違いもなない。
その人が、正しいと思うから正しいし、間違いだと思うから間違いになる。
ただ、その正しい、間違いをどう決めるかが、ええなーあか、ありゃりゃーあかの違いを生むような気がする。」
なんて、長々と語ってしまいました。

この世の中、生きとし生けるもの、すべてに役割がある。自分から見ると、有益でないものと思えても、長い長い悠久の時間の中では、必ず役割がある。
人間には有害な動物だって、人間にとって不都合なだけ。
むしろ、今の環境悪化の問題から見たら、人間こそ地球にとって有害な存在に思えてくる。

何を基準にするか?
俺は、痛かった時の自分を思う。
弱くて、自分を責めて、自分を許せなかった時の自分を思う。
と、俺の基準が見えてくる。
1.痛がっている人に寄り添う。
2.自分を責めている人に寄り添う。
3.自分を許せない人に寄り添う。
寄り添う → くっつく → → → → 寄生する → 寄生虫になる。

というわけで、寄生虫という、人生の故郷に帰省する、きせい虫になろーーーー。

サーシャ、暑い中、汗臭ぇぇぇぇ、寄生虫を目指すの巻でした。

PS:タイトルの「プラマイゼロ」は、どこいったあああああ。(意味不明じゃんかああ) 

2007/08/15(水) 安岡正篤先生の言葉から
自分が常に意識している「こころ」と「からだ」の関係で、とても興味深い文章に出会いました。
安岡正篤先生が、禅寺で修行している若い坊さんたちの、日常の生活への不満に対して言った言葉です。

「人間は足腰というものが大事なんだ。足をなぜ『足る』と読むか?腰抜けといって、人を罵倒するがこれはどういうことか?
君たちは座禅をしたり、掃除をしながら、足という字の意味も腰をいう字の意味も知らんじゃないか。
人間は観念の遊戯、あまり抽象的な問題に体を抜きにして偏ると、薄っぺらになってくる。

大脳皮質というものが上のほうに上ずってしまって、体がお留守になると、駄目になってしまう。すぐに神経衰弱になったり、空疎になって、くだらない思索の遊戯に陥ってしまったり、空理空論走ってしまう。
まず大事なことは、そういうことにならんように足を地につけ、腰をしっかり据えることだ。」

「肝腎要ということがあるが、何か知っているか?
肝腎要といったら、肝臓と腎臓と腰ということだ。
腰というものはそうゆうふうに、肝臓と腎臓と同格で大事であって『要』というのは腰という字で、あとになって肉月をつけて腰という漢字になった。

だから、人を罵るのに『腰抜け』というが、あれは名言なんだ。だいたい腰抜けが多い。腰が抜けると、上半身と下半身の連絡が悪くなるから、本当に駄目になってしまう。

足は、『足る』と読むぐらい、足というものは全身の生理・健康にもっとも関係が深いので、足が丈夫であれば、健康はそれでだいたい良い。
だから『足る』と読む。手は、そういうわけにはいかん。だから、足腰が大事なんだ。
その為に、禅家では座禅と同時に掃除をさせるんだ。
掃除でも竹ほうきをもって立ってする掃除は、あまり役に立たん。拭き掃除に限る。
尻をふりたてて、そうして長い廊下を雑巾でもって拭く。これは非常な薬で、どんな神経衰弱で、いかなる妄想にふけっている奴でも、これをしばらくやったら神経衰弱はすぐに治る。
神経衰弱が治るばかりじゃなくて、胃腸病なんかもみんな治ってしまう。こんなありがたいものはない。」

という文章です。
心身一如、心と身体の関係、まだまだ私の知らない世界です。
自分の為に書き残しておきたいと思いました。

2007/08/06(月) 入れ物
学びとか心の問題をお話される方が、入れ物のお話をされることがあります。
水で一杯なったグラスに、さらに水と注ぐとこぼれてしまう。
いつも心を空っぽにしておけば、素直になれば、学んだことがグラスにちゃんと溜まる。
素直であること、謙虚であることの大切さの例に出されます。

考えてみると、私の心は、いつも、色々なもので一杯です。
生老病死、四苦八苦、ちゃんとすべてのものが揃っています。
そんな私ですが、ちょっとの経験をして、100の大きさのものが98くらい、2個くらいは小さくなったかなと思ったりもします。
そして、色々なものを抱えているのが、人間のような気がします。

私は、今、あることで実感したことがあります。
見えるものと見えないものことです。
心の入れ物に入っている色々なものは、表に表れているものもあるでしょうが、それ以上に見えていないものあると思うのです。

その見えていないものを、私はどれくらい見えることができるのでしょうか?
声にならない声、言葉にならない言葉。
表にださず、ひっそりとしまいこんでいる辛さ、悲しみを、私はどれだけ見ることができるのでしょうか?

人間は氷山。
見える部分が10%。
90%が見えない部分。
自分でも、知らない自分をもっているのが人間。
そんな気がします。

私は、自分の心の入れ物の大きさを、大きくなんかできないけれど、入っているものをちょっとだけ小さくすることなら、できる気がします。
そうすれば、入れ物にちょっと余裕ができる。
そうすれば、見えなかったものも少しは、・・・・・・。

などど、思ったりしながら、今日もブルベリーの錠剤をがぶ飲みするサーシャでした。


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