サーシャ親父の独りよがり日記
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2008年1月
前の月 次の月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新の絵日記ダイジェスト
2010/04/21 平安時代以前j
2010/04/13 コスプレ
2010/03/27 ジャズ
2010/03/17 歌垣の王女
2010/03/13 奈良時代以前

直接移動: 20104 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 月 

2008/01/30(水) 大石順教尼のこと
幾つになっても知らないことはたくさんあるもんだなーあと、感動するたびに思います。
ご存じの方もきっといらっしゃるでしょうが、大石順教尼さんの最近知りました。
16才の時に両腕を義父に切られて、九死に一生を得た方です。その後、波乱の人生を過ごされ、得度して尼僧になります。

まだ、障害者への行政の対応が遅れている時代、一人で施設的なものを立ち上げました。
その時の、ある出来事です。

大石順教尼が、足に障害のある若いお弟子さんが転んだ時に言った。
『西野、おまえ片足が悪いくらいで何や。ちゃんと歩けぬか、よく転ぶなア』
『よく転ぶなあって、転ばぬで歩けゆうても無理ですよ。ようご存じじゃないですか。』
『そうか。転ばぬと歩けぬか。それはかわいそうだ。悲しいか。』
『もちろん悲しいですよ。ちゃんと歩けたら、どんなに楽しいかわかりません。』
『よし西野。転ばぬで歩ける方法を方法を教えてあげよう。』
『えツ。先生もお人が悪い。そんないい方法があるなら、何で早ように教えて下さらなかったんですか。早くいうて下さい。』
『西野、いまいうてやるから、耳の穴をほじってよう聞いておきなさい。それはなア、悪い足を隠さないことだよ。』
と、静かにおっしゃった。

私たちは、隠すこととか困るものがあるから、人生が狭い。
人に知れたら困ると、隠そうとするから転んでしまう。
足の悪い者は足の悪いままを素直に受け止めて、その上でどう生きていくか考える。
それが人生の土台だと思う。
(一燈園法話、石川洋著より)

同じ石川洋さんの本、「無いから出来る、大石順教尼の生涯」を機会があれば、呼んでみて下さい。
感動の涙、間違いなしです。
星、三つですううううううううう。

人間って、すごいなーあ。

2008/01/23(水) 茨木のり子さんの詩から
金八先生の番組で紹介された詩です。

『廃 屋』
人が
棲まなくなると
家はたちまち蚕食される
何者かの手によって
待ってました!とばかりに

つるばらは伸び放題
樹々はふてくされて いやらしく繁茂
ふしぎなことに柱さえ はや投げの表情だ
頑丈そうに見えた木戸 ひきちぎられ
あっというまに草ぼうぼう 湿気にむれ
魑魅魍魎をひきつれて
何者かの手荒く占拠する気配
戸さえなく
吹きさらしの
囲炉裏の在りかのみ それと知られる
山中の廃屋
ゆくりなく ゆきあたり 寒気だつ
波の底にかつての関所跡を見てしまったときのように

人が
家に
棲む

それは絶えず何者かと
果敢に戦っていることかもしれぬ

*************************

そして、もう一つの詩

『自分の感受性くらい』
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る威厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

****************************

恋の歌から

『あほらしい唄』
この川べりであなたと
ビールを飲んだ だからここは好きな店

七月のきれいな晩だった
あなたの坐った椅子はあれ でも三人だった

小さな提灯がいくつもともり けむっていて
あなたは楽しい冗談をばらまいた

二人の時にはお説教ばかり
荒々しいことはなんにもしないで

でもわかるの わたしには
あなたの深いまなざしが

早くわたしの心に橋を架けて
別の誰かに架けられないうちに

わたし ためらわずに渡る
あなたのところへ

そうしたらもう後へ戻れない
跳ね橋のようにして

ゴッホの絵にあった
アルル地方の素朴で明るい跳ね橋!

娘は誘惑されちゃいけないの
それもあなたのようなひとから

**********************

こんな詩を読んだら、島崎藤村を思い出した。
『初恋』
まだあげ染めし 前髪の
林檎のもとに 見えしとき
前にさしたる 花櫛の
花ある君と 思いけり

やさしく白き 手をのべて
林檎をわれに あたえしは
薄くれないの 秋の実に
人恋い初めし はじめなり

我が心なき ため息の
その髪の毛に かかるとき
楽しき恋の 杯を
君が情けに 酌みしかな

林檎畑の 樹の下に
おのずからなる 細道は
誰が踏みそめし かたみぞと
問いたもうこそ 恋しけれ

*******************
島崎藤村、若い頃、大好きな作家でした。

2008/01/16(水) 名前
わたしゃ、幸いなことにサーシャちゅう名前を、思えばもう十年以上使わせてもらっています。
海外の友達からつけられたニックネームをそのまま、ハンドルネームに使いました。

それで、最近思います。(成人式からの連想かな?)
名前、昔、っても武士の時代、元服するまでは幼名、例えば徳川家康なら、竹千代みたいな名前を名乗っていました。
元服後、名前を変え、その後も名前を変えたりすることがあったりしました。

人は、体は小さいときの、身長100cmから、150cmになったりします。
産まれたときは、平均50cmくらいの身長らしいから、わしの場合なんか、3,5倍くらい大きくなっている。
のように、きっと心だって、小さいときから比べたら、3倍も、4倍も、5倍も、6倍も大きくなっているはず。

名前を変えていくってから思うことは、昔の人は、感覚的にそのことを知っていたんじゃないからと思うんです。
心が、大きくなっていく、つまり、別の人間になっていく。
だから、名前を変えていく。

十年前の私と、今日の私は、同じでしょうか?
容貌が変化するように、私の心もきっと十年目の私の心とは、違うような気がします。
今の私の中にだって、いい私から悪ーーーーーーーーーーーーい私まで、大きな、大きな幅で色々な私がいます。

名前。
名は体を表す。
のかな?

色々な私。
どれも私。
どんな私も、私なんだから、大切にしておこーーー、っと。

2008/01/09(水) 新年ですね
私は、本を読みながら感動した文章をよく自分のノートに書き込みます。
で、最近気付いたことは、後で、読み返して見るとそれがどの本からの引用なのか分からないことでした。
この間も、自分のバッグから一枚の紙切れが出てきました。

どの本からの引用か分からないし、たぶん、数冊の本からの引用だと思いますが、とてもいい文章だったので、新年にあたり自分の学びの為にここに書き込みし、自分の学びとしたいと思いました。

・近代的知性は将来を見通して、現在の計画をたてる。全体を俯瞰して、東西南北を確認し、今いる位置を確認しようとする。
それはそれでいいことだが、予測がつかないはずの全体を捉えようとして、生きている今を失ってしまう場合もある。

・人生は我々が見ている世界そのものによって決まるのではなく、自分がどのように世界を見ているかでもって決まるのだ。
昔から、自分の想念が自分の人生を形作ると言われている通りなのだ。
自分こそが自分の人生の実現者なのだ。

・ユングは集合無意識と言ったが、同じ波長の者達が集まって、一緒に研鑽すると、その場の波長は明らかに高まる。
すると、高い波長の場に助けられて、それぞれが深く悟入できる。

仲間って、やっぱりとても、とても大切な存在なのですね。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.