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2006/07/26(水)
トュルーマン・ショウ
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観ました。 生まれた時からテレビで中継されっぱなしのトュルーマン。
なんでこんなことになったのかといえば・・・
「作り物の演技に飽き飽きしたプロデューサー」が「よりリアルに」を追求した結果、トュルーマンという男性が生まれた時から中継しつづける番組を製作。そしてそれが世界的にヒットして、本人以外は皆彼をテレビで見て知っている・・・。彼の周囲の人間は親や結婚相手すらテレビ局からの回し者。町ごとセットで町中のひとはエキストラ。 町で起きていることはすべてテレビ局の演出・・・バスの運転手も船の船長も医者も全員「役者」。彼に「そのセットの世界が本物だと思い込ませるため」の。と同時に撮影のための。
この映画を見ていて、「演技」ってなんだろう・・・としみじみ思いました。 この「トュルーマン・ショウ」という番組が映画の中でヒットするのは、ほかならないトュルーマンという人間そのものが「魅力ある人」だったから成功したのだとおもう。 リアクションがいい。テレビ局側が仕掛けることに対して、とてもいい反応をしてくれる。それは下手な演技よりずっと面白い・・・そういうことだったのかもしれない。 もしこのトュルーマンがリアクションの少ない人だったら・・・。 たとえば一日中テレビゲームとかしっぱなしだったり、テレビ局がわが仕掛けてくることにいまいち反応悪かったら・・・
たぶん、視聴者は観ていてちっとも楽しくなくて、いくら「リアルだ」といっても観るのをやめてしまったにちがいないと思ったんですね。
世の中「素」が面白い人・・・なんてそうそういるもんじゃない。
と同時に、人は「何が見たい」んだろう・・・ってことも考えさせられました。
トュルーマンはキャラが良すぎたので番組が30年も続いてしまったんですね。キャラが悪かったら、もっと早い時点で打ち切られたはず。
ようするに私たちは「感動したい」んだとおもう。 感動っていうのは心が動くことで、かならずしも「いい気分」とは限らない。 「喜怒哀楽」 を味わいたいんですね。
そして「現実のありのままのもの」が必ずしも「喜怒哀楽」を刺激するとは限らない。 そう・・・食品サンプルのように・・・「美味しそうにみせる」演出をしてはじめて「美味しそう」に見えることがあるような・・・。
現実のしぐさでは地味すぎて気がつかないことを「誇張」することで 「解りやすくする」 それが演技。
絵の世界でも実はそうで、花の絵なども、実際のようなスケールで描くといまいちピンと来ないけれど、こころもち「大きく」描くと「華やか」になったりする。
ただそうした「誇張(うそ)」も「現実を踏まえて」いないと「でたらめ」になる。 「でたらめ」と「うそ」はまったく違う。
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