|
2007/05/26(土)
決断
|
|
|
つくづく自分という人間が「世渡りべた」というか・・・馬鹿というか・・・自分でもあきれることがしばしばあるんですが・・・、慶應通信の9月卒業を、延期することに決定しました。 教授からは、「9月卒業にむけて提出したらどうか」(9月卒業だと、6月末日に卒論提出になります。)と薦めていただいたんですが・・・まだ取りきれていない単位があるし、夏のスクーリングも残ってることだし、「順序なんか気にしなくていいよ。卒論先に出しちゃって、あとから単位とれば」と言っていただいていたんですが・・・やっぱり「単位とってから卒論」がいいかな・・・とどうしても踏ん切りがつかなくて「延期」することにしました。せっかくの教授の薦めを蹴る馬鹿もの・・・こんなだからなかなか卒業できないのでありますね。頑固者。こういう性格がレポートや試験に如実に反映してるのかもしれません。あうう。
まあとにかく来春卒業目標で。
そんなこといいつつ・・・来春も無理かもしれないし・・・ああ・・・何年かかるんだろう。 でも「生きてるうちに」卒業したいもんです。
「蘭学事始」に、解体新書を翻訳する作業をする有志たちが集まってきて、老若問わず、公的補助なんてもんもない江戸末期に「とにかく自分はいつ死ぬかわからないから一日も怠ることは出来ない」という老人が参加していて、「自分が解体新書の翻訳完成まで生きていられなかったら、草葉の陰から応援する・・・」みたいなことをいつも言っている「老人翻訳者」が出てくるんですが、そのせいで皆に「草葉の陰」というあだ名までつけられてしまうという。爆 で・・・結局そのじいさんは翻訳完成までちゃんと生きてるんですけど。(むしろ若者の有志がどんどん生活苦や、病気でいなくなっていくんですね。)
まあその「じいさん」の心境でございます。(このじいさんが所謂杉田玄白そのひとだったりします。)
ちなみにこの「蘭学事始」を世に出したのが、福沢諭吉だそうな。この本を偶然古本屋でみつけ、出版してこの世に出したのが福沢諭吉で、福沢はこの本に痛く感動して泣きながら読んだとか・・・。
「死」を意識する癖というのはわたしの思考回路の一つの癖といってもいいかもしれません。わたしの父方の祖父や母方の祖母もそれは共通していました。 両者とも大きな手術を経験しているからかもしれませんが、祖母は衣替えの時期になると 「来年も着れるやろか・・・」といいつつ着物の整理をしてましたし。(ちなみに90すぎて今も生きてますが。)
祖父も「しをりが幼稚園に行くのが見れるかな〜」「小学校に行くのが・・・中学行くのが・・・」といいつつ、私の子供が小学校に上がるのまで見届けてなくなりました(やっぱり90ちかくで。)が・・・。
そういう言葉を聴きながら育ったせいか、わたし自身子供のころから虚弱で病気がちだったせいか
「明日ありと 思うこころのあだ桜 夜半に嵐の ふかぬものかは」 「来年のことをいうと鬼が笑う」
祖父母や「蘭学事始の草葉の陰翁」が「死ぬ〜死ぬ〜といいつつ長生きした」からといって私もそうだろう・・・という保証はいっこもないわけで・・・・
ついそう思うわたしの「心の癖」であります。
|
|
|