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2018/01/16(火)
縁・・・・・
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「袖触れ合うも多生の縁」
なんていいます。
意味は、「この世界で、見ず知らずの人と、すれ違いざまに袖が触れ合う、そしてそれっきり、特に何もない。しかし相手の袖と自分の袖が、すれ違いざまに触れるということがあるのは、自分たちが前世、どこかで関係していたからだ」
とかいいう意味で、だからこの世界での縁に思いをはせて、縁ある人を大事にしましょう。という仏教的な諺なんですが・・・。
私は外国の方と接する機会がとても多い。
袖と袖が触れ合うどころではない。
特にフェイスブックでは日本人よりも外国人のほうが多い。
現実世界でも、中国・韓国・ドイツ・イギリス・フランス・ベルギー・フィリピン・アメリカ・ロシア・・・・・と多国籍な交流。
教会のせい・・・というだけでもないようです。
フェイス・ブックは教会は関係ないですし・・・
となると・・・これはいったい私の前世はなんだったのか・・・と不思議になります。
こりゃもう私の前世は多国籍な人たちと関わる「国連の職員」とかじゃないと、説明できない。
前世「国連の職員」?
それにしても「縁」というのはますます不思議で、死んだ後にかかわるということもあります。 死んでいるから、片方はもう、私と関わっているなんてわからない。
教会で葬儀の手伝いを頼まれたんですが、まったく見ず知らずの方の葬儀に参列するわけです。
こんな、人生の・・・この世での最後の形骸を保持している、つかの間の瞬間にだけ関わる縁というのは、いったいなんなんでしょう。
本人の魂は、その躯からすでに抜け出ているわけです。
いったい、どんな前世での縁のために、いままで、まったくその人の人生を知りえないというのに、この最後の瞬間の「躯」とだけかかわりを持つということがあるんでしょう。
そして、かかわりをもつ私もそう思いますが、自分の「この世の忘れ形見」のような体に関わられる方も、その出来事の「不思議な縁」を天国で思っていると思うんです。
今、この世にあって、なんの因果か知りませんが、わたしにせっせせっせと毎日毎日いやがらせわしてくる方がいますが、私はその人たちを前世で相当苦しめたのかもしれないなあ・・・と思うことがあります。
魂のそこに焼き付いた記憶というのは、なかなか消えない。
しかし、前世の私も、きっと誰かに苦しめられたりしたに違いないのに、私には、幸運にも、そうした今の世にまで、引きずるような恨みの記憶は、わたしの魂には刻まれていないようです。
きっと、間違いなくいえることは前世もわたしはキリスト教徒だったに違いない。
だから、前世での『怨恨』を引きずらずにこの世で生きていられるのだなと思います。
写真は『結び目を解く聖母』。 世の中には自分の力ではなかなか解くことのできない問題が山ほどある。マリアさまに、その『凝り固まった結び目』を解く手伝いをしていただいているのだと信じて、信じる道を進んでいます。
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