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2006/01/31(火)
ラスト5。
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今日の横浜集会は、 ぱうろ・かなみ・周平・しんご・なつこ・愛美・宏一そしてそして、弘司が久々に来てくれましたぁ〜!!感謝です!!
毎年3学期は恒例(?)の定期集会連続メッセージシリーズ! 今年は“山上の垂訓”。初日の今夜はマタイ5章1-3節。 とても厳しいこと、「こんなすごいみことばを守るなんて絶対無理だよイエス様!」って言いたくなってしまうような、でもとても大事なことを教えたいと願われたイエス様が、すべての最初におっしゃったのが、このことばです。
心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
天の御国が自分のものになるとしたら!なんだかもう想像できる域を超えたすごそうな良さそうなことに感じます。その意味は、キリストの支配が私を覆ってくださるということ。 ルカ17:21「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」どういうことなんでしょうね?
心の貧しい人って、どんな人でしょう? 人の欲求は満ちることがありません。欲しいものが手に入るとまた次のものが欲しくなります。あれが欲しい、こうなって欲しい、そうやってどんどん自分のものにしていきたくなる。自分の思い通りになってほしい。仮に世界が自分の思い通りになったとしても、それは幸せなんでしょうか。 この箇所で使われている“貧しい”という言葉は、生存できる十分な食べ物がない、という意味の単語です。一切の余裕がない。もう今日明日も生きれない。ゼロなのです。 心がゼロ。空。無。虚。優しい人のフリや、謙遜なフリや、へりくだったフリなんか、できない。そんなことをする余裕がない。愛せない。満足のいく交わりを持てない。 …そんな人を、イエス様は“幸い”だと言うんです。 多くの場合、そのことに気づかずに、自分はイイヤツだなぁって思って生きているから。たまに偽善者だなと思うことがあっても、普段はそれを極力見ないように隠して隠して生きているから。 だから、イエス様の御前に出たとき、私たちは打ちのめされるのです。 完全に打ちのめされるのです。まいった。まいったなんてもんじゃない。自分に絶望するのです。 イザヤ6:5「ああ。私は、もうだめだ。」 もうだめだ。
イエス様にあって、ここが、スタートラインになるのです。 主の足元にひれ伏して、「私は罪深いものです」と告白したとき、心が貧しくなったときに。 私が私で満ちているときではなく、私はスゴイって思っているようなときではなく、そんな根拠も実体もないいい加減なときではなくて、私がイエスで満ちているときに。 「どうにもならない!」って気づいたとき。「もうだめだ」と思ったときに。 主の支配が、来るんです。 自分は愛せないと思っていた人は、キリストの愛で愛せるようになります。満足できる交わりが持てなかった人はキリストが中心になった新しい神の家族を得ます。大逆転です。
「イエス様が心におられないと、何もできない!!」ということが、何より大きな希望になるんですね。
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