関西大学 体育会陸上競技部 部員日記
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2012/10/27(土) 君は、木村政彦を知っているか。
木村政彦

史上最強の柔道家。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられた。「鬼の木村」の異名を持つ。1937年から全日本選士権を3連覇するも、第二次世界大戦により、兵役の為に柔道から離れるが、1949年の全日本選手権ではブランクあるにも関わらず圧倒的な強さで優勝。全日本選手権13年連続保持、天覧試合(当時最も権威のある大会)優勝も含め、15年間不敗のまま引退。現代に全盛期の木村政彦がいたなら、100kg超級のオリンピック覇者でも勝てないと言われている。

木村政彦は練習量の激しさで有名だ。拓大時代、大学での練習は10時間を超え、それに加えて警視庁などを回って乱取り稽古をしていた。夜になると大木に帯を巻いて1日1000回打ち込みを日々行い、その大木を枯らしたそうだ。木村政彦は「寝ている間は死んでいるのと同じ」と考え、睡眠時間は3時間しか取らなかった。並はずれた練習量による木村政彦のパワーは桁外れだった。当時はまったく取り入れられていなかったウエイトトレーニングを行い、抜群の筋量とパワーを手に入れたのである。師匠の牛島辰熊が団扇で扇いでくれというと、木村はその場にあった畳を持ち上げて扇のように扇ぎ牛島を驚かせた。

師匠の牛島辰熊もまた、厳しい師匠であった。昇段試験で木村が8人抜きをし、師匠に褒めてもらえるだろうと報告に行った際、牛島は間髪入れずに木村を殴った。「柔道は殺し合いと一緒だ。お前は8人殺し、9人目に殺されたのだ」と言い放った。それ以降木村もより練習に励むようになった。

そんな木村が全日本選士権で初優勝した翌年、連覇のかかる全日本選士権前のことだった。ふいに、頭に「負」という文字が浮かび上がってくる。試合に負けるのではないかという不安が襲ってきた。木村は短刀を持ち、自分の腹部を少し切った。流れてくる血を見て、「よし、俺はいつでも死ねる。死ぬのは怖くない」と思った。すると頭の「負」という字が「勝」に変わった。それ以降木村は、負ければ腹を切ると言って試合前日には切腹の練習をし、決死の覚悟で勝負に挑んだのだ。そして15年間不敗という伝説的な経歴を残した。

木村政彦が全盛期を何年も過ぎた頃、とある事情でブラジルに渡り、K−1界では有名なブラジリアン柔術の使い手であるグレイシー一族の祖、エリオ・グレイシーに挑発され対戦することになる。「ギブアップ」か「絞め落とし」のみの判定ルールで行われた試合だが、第2Rで木村政彦が得意の大外刈りから独自で生み出した柔道においては禁止技となっている腕緘という技へ持っていった。ギブアップをしなければ確実に骨が折れる技で、木村自身も決まった途端エリオに「ギブアップをしろ」と言った。それでもエリオはギブアップをしなかった。仕方なく木村が技をかけ続ける。「ミシ、ミシミシ」という鈍い音が会場に響き、観衆も静まり返る。完全に骨が折れたのだ。それでもエリオはギブアップをしなかった。危険を察したセコンドがタオルを投げ込み、木村の勝利となった。木村はのちに、「何という闘志の持ち主であろう。骨が折れ、骨が砕けても戦う。試合には勝ったが、闘志においては完敗だった」と語っている。エリオも木村の強さに敬意を払い、腕緘を「キムラロック」と名付けた。エリオは、晩年、「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。

K−1で初めてグレイシー一族を破った桜庭が使った技もまた、「キムラロック」であった。


是非YouTubeで木村政彦をみて頂きたい。
エリオ・グレイシーと戦った時の映像が残っているのだが、私は今まであんなにも強烈な大外刈りを見たことがない。

写真は全盛期の木村政彦


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