〜ing〜アメリカつれづれ日記
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2006/11/28(火) フジタジュン
フジタさんがミネソタに建てた日本式?家屋が、国立公園局の歴史的建造物に指定されているので、ミネソタの公園局に電話してみた。長年、彼のことを熱心にリサーチしているアメリカ人がいた。親切な人で、10年前以上にかれらが、フジタさんを直接に知っていた人たちを取材した取材記録のコピーを送ってくれるという。感謝である。少しずつフジタさんが見えてくるような気がする。カナダとの国境に接する、ミネソタ最北の、冬は極寒の森と湖のそばで、フジタさんは、奥さんをほったらかして、一人時間をすごしていたらしい。知る人は、フジタさんのことを独身と思っていたとか。。フジタさん、あなたはかなりの変わり者ですね。で、そんなあなたに尽くしたフローレンスさんも。。。ますます惹かれてきましたよ。。フローレンスさんも私も単にゲテモノ食いなだけかも、とも思いますが、よし、来年はミネソタ僻地訪問旅行だあ。。。(笑)

2006/11/26(日) 川の町
久しぶりに、イリノイ取材で、イリノイ川に向けて車を走らせた。今住んでいるあたりは開発が進み、畑がすべて、同じ形をした箱のような家にとってかわられつつあるので面白くない。町を出たとたんに、えんえんと広がる農村風景に心が和らいだ。イリノイ川沿いの町、オタワは落ち着いた小さな町だった。イリノイには海はないが、港町神戸に似た匂いが、かつて河川交通で栄えた町オタワにもただよっているような気がした。水路で世界各地からさまざまな人と物がやってき、まじりあり、一瞬のかりそめの戯れと喧騒に身をゆだねながらも、翌朝の虚しさを知りつくしている人と土地の”さびれ”たたたずまい。オタワは、神戸の昔の南京町の横丁から、2つ3つ西に入った狭い小路の雰囲気があった。海のないイリノイに住んで、川の町が好きである。

2006/11/21(火) イリノイ国勢調査
来年の学会で、自由論題で「ジュン・フジタ」のことを発表してみようとついに決心した。で、大学の図書館に行って、国勢調査の資料をさがした。金子さんとフジタさんは同じ時代のシカゴー1900年代初めーにいた人なので、家庭環境をのぞきみするのに一石二鳥かと思ったのである。ああ、びっくりした。国勢調査って、家に調査員が来て、紙にいろいろ書きこんでいくものだったっけ。。住所ごとーつまり通りーごとに手書きの調査票がマイクロフィルムにおさまっている。ああ、大変なこと大変なこと。名前順ではなかった。結局、今日は、金子さんとフジタさんの古い住所を探して、その住所がシカゴ市何区にあたるのかを調べて、それからマイクロフィルムをチェックしなければならない、と学んで帰ってきた。まだまだ時間と手間がかかるぞ。。来年の学会での発表に間に合うのか、もう心配になってきた。。(悲)それにしても、イリノイの国勢調査って、1830年からのが残っていた。。ああ、なにやら恐ろし。。。立つ鳥跡を濁さず、できれいに消えたいと思っているのに。。。

2006/11/16(木) リンカーン200周年
大学のキャンパスで催された、「リンカーンとブラックホーク戦争」というドキュメンタリー映画を見にいった。ここの教授が作ったもので、PBSでも放送されたとか。特に目新しい事項を発見したわけではないが、映画のあとのディスカッションで教授が口にしたひとつの言葉にわくわくした。2009年はリンカーン誕生200周年だから、世間ではきっともっとリンカーンがとりざたされるだろう、ということ。2009年か。よし、それを目指して、私も売れない原稿を書き上げよう。(笑)「おたく的」な原稿のほうが売りやすい、と聞いたではないか。そういえば、最近、オリンピックのアメリカ候補地も、残っているのはロサンゼルスかシカゴ、と読んだ。シカゴが万が一選ばれるようなことになれば、イリノイ本の原稿も売りやすくなるのにな。。でも、オリンピックは2016年だよな。。私が生きてるかどうかも分からない。。。(悲)とにもかくにも前を向いて、止まらぬことなく進むのみ。時間はもうそれほど残されてはいない。。

2006/11/13(月) 運転講習会
スピード違反の切符を切られて、その記録を消すために、運転講習会に行ってきた。集まった22人のうち、老眼鏡がいりそうなのは私も含めて3人ほど。あとは若い人ばっかりだった。どんな具合にダイアナ妃が亡くなったか、そのコンピュータシミュレーションのビデオを何度も見せられて、気分が悪くなり、親とティーンの会話を聞かせられて、自分の娘との会話を思いだしてこれまた気分が悪くなり、会場にいた若い男からは、後ろから抜きたがる車が来たら、いったんは抜かせてやるけれど、今度は自分がその車を追いかける、それで事故を起こした、と聞かされて、これまた気分が悪くなった。そんな小さな、しょうもない人間がやっぱりいるんだ。自分を抜きたがるやつには、抜かせてやったらそれでいいじゃないか。なんでまた追っかけなあかんねん、そんなことでしか、自分の力を確認できないのか、ああ、なんてネガティブ、と腹が立って、気分が悪くなってきた。でもまあ、ほんとにいろんな人間が同じ道路を使っているんだ、と実感して、「さわらぬ神にたたりなし」を確認した。私なんか、後ろに迫ってくるやつがいたら、こっちは道路脇に車を止めでも、抜かせてやりたくなるぐらいである。で、それ以上に嫌気がさしたのは、年間4万人の若者が交通事故で命を落とし、死傷者全体は年間63万人にものぼるという数字である。戦争どころではない。ああ、なんでそんなにまでして車に乗らねばならぬ。。車の利点といえば、ただただ便利というだけである。環境問題、歩かなくなっての健康問題とやらを考えたら、やはりもっと公共交通機関を充実させるべきである。道路は、物流のトラックと救急車といった緊急のものにだけにしようという発想は生まれないものか。で、そういう風に考えていたら、もっと腹が立ってくるのが日本である。アメリカは広大だから、鉄道が効率が悪いのはよく理解できる。それに比べて日本は、あの小さな国土でなんで車を使わねばならないのか。ただただ便利さを追求するだけの、新しモノ好きの社会と人間たち。。車は駐車場がいるから、狭い国土では不便なはずなのである。それなのに。。。神戸の六甲山などはもう衝立になってしまって、裏山は全部削り取られているというではないか。山を削って、人工の島を造ったりしなければならないような狭いところで、なんでたくさんの車を走らせ、アメリカ式のライフスタイルを追っかけねばならないのか。日本から流れてくるニュースといえば、小学生の登校の列に車がつっこんで、児童が死んだとか、ひき逃げだの、飲食店では飲酒運転をさせないように鍵を預かるとか、よけいなコストがかかることばかりだ。なんでそんなにまでして車に乗らねばならないのか。そういえば、地下鉄の駅から携帯電話で家族を呼び出して、歩いて10分の道を車で迎えに来させる馬鹿な人間の話を、友達がしていたのを思いだした。ただ「便利」を追求するだけの軽薄・底の浅い社会から、「公」のコンセプトが完全に欠落しかけている。都会に住んでいたら、たとえ車を購入できる経済力があっても、自らの健康のために、環境のために車を買わない、使わないと言い切れる気概の大きさ、そして、夜道を一人で歩いても安全な社会を作ることが最優先されるべきなのである。まあ北朝鮮に、「日本はアメリカの一州なんだから、会議なんかには出てこなくていい、アメリカから話を聞けばいいんだ」などと言われている限り、日本に未来なぞないか。今度シカゴに出るときは、電車を使うぞ。この電車は日本企業製である。日本企業の名前が車両に打ち込んである。そのプレートを見ると私の誇りがくすぐられる。日本企業だから、ではない。アメリカで鉄道産業に関わっている、そのことがたまらなくうれしいのである。

2006/11/10(金) バーブラ・ストライザンドとアメリカのおばさんパワー
昨夜、バーブラ・ストライザンドのコンサートを聞きに行った。アメリカで、こういう大きなインドアの体育館をでかくしたプロバスケットとかプロホッケー場でのコンサートを聞きに行ったのは初めてのような気がする。まあ、どんなとこだろ、どんな人が聞きに来てるのだろう、と興味深々で行ったところ、ああ、びっくりした。アメリカのおばさんパワー炸裂である。開場を待つ長い列ーありがたいことに昨夜は珍しくかなり暖かかった。会場にやっと入れたと思ったら、ストライザンドの記念パンフレット40ドルをつかんでいくファンたち(私なんか、おっさんにパンフレットに触らしてももらえなかった、40ドルかよお〜〜高すぎる)、各階にいくつもある臨時売店にも、これまた人だかりで、これまた40ドルから50ドルもするストライザンドのT-シャツをみんな必死のまなざしで買っている。。ああ、びっくりした。。。とにかく中年、初老のおばさんたち、中にはつえをついたよぼよぼした女性もいた。。すごい!!!いっしょに来ているおっさんたちも白髪まじりでおなかが突き出た中年、初老ばっかり。。どうやら、おばさんたちに引きづられてきた人たちばっかりだろう。マイケル君などは、切符が10ドルでも行かない、と言い切ったぐらいで、癖の強いバーブラ・ストライザンドの歌声を男たちが好くわけないのである。中に入ってびっくり。。私は、一人200ドルの席だったので3階だったが(一番安い席は100ドルだったが、さすが、私の青春時代の思い出のためには、そこまでけちる気にならなかったのだが、マイケル君には、げええ、200ドルとかなり揶揄されたー笑)、1階をのぞいてびっくりーステージ前の特等席一人750ドルの席が満席である。きのうは火曜日に続いての2回目のコンサートで、火曜日は満場売り切れだったようだが、きのうもほぼ満員に近かった。あの”体育館”、1階から3階までいったい何人入れるのだろうか。。プロスポーツの会場だから相当な人数である。高所恐怖症の私は、びくびくしながら、それでも、ステージの真横で、前から3番目の列だったので、なかなかよかった。最前列の女性なんか、3階から今にも下に落ちそうなぐらい身を乗り出している。熱狂的なファンに違いない。隣に座った初老の女性は、2階の一人350ドルの席を買って一人で来るつもりだったが、主人が来るとか言うので、しょうことなしに200ドルを二人分買ったと笑った。だんなのほうは、強制的につれてこられた、と笑った。私の右隣のこれまただんなは、大きなポップコーンの箱をかかえて、始終ぼりぼりぼり。。ハリウッドのアクション映画でも見にきたのりである。その横に座った奥さんのために、しょうことなしに来たに違いない。それにしても、夫婦そろって400ドル払って、ポップコーンかよ、と私は思わず苦笑いしてしまった。。前座はどんな人がでてくるのか、と思いきや、さすがなかった。ストライザンド64才、しょっぱなから登場。おばさんたちが一斉に「きゃあ、きゃあ」と立ち上がって声を上げる。こっちの耳が痛くなる。ああ、びっくりした。。大きなスクリーンに映し出されたストライザンドの顔は、さすがプロがうまく化粧しているに違いない、年を感じさせなかった。。肉眼でも真上から、スタイルのよさはよく見えた。すごい。。そして声量は、昔、レコードと聞いていたのとあまり変わらないように聞こえた。確かに、裏声にも近い高音部分は、上げずに下げてメロディを変えたし、休憩前の前半では、歌の最後のほう、声がざらついてきて、聞いているのがちょっとつらくなる部分もあったが、休憩後は声がよくのびて、若いときのレコードとまったく同じように聞こえた。ああ、すごいなあ。。42年のキャリアだという。映画「ファニーガール」から「ピープル」も聞いた。「追憶」は涙なしに聞けなかった。ずっとずっと昔、恋愛や結婚に、「乙女の夢」はかなわぬとは知りながら、それでも淡い夢を抱いていたあの10代の終わりから20代の初め、一晩中夜明けまで、ウイスキーをロックで飲みながら、耳にヘッドホーンをあてて、ストライザンドのレコードを聴いていたのである。飲みすぎて、顔が蕁麻疹で紫にはれてしまったこともあった。。あのころの、今から思えばひねくれてはいたけれど、純でナイーブな気持ちと、その先の不透明な人生に対して抱いていた不安を思いだした。不透明な若い時代は、なんと残酷な時代でもあったことだろう。遠くまで来てしまったものだなあ、とつくづく思う。もう今は、不透明どころか、はっきりと見えるのである、この先に何が待っているかを。あの時代、いつか生のストライザンドを見るだろうとはつゆとも想像もできなかったろう。30年後に、ストライザンドが歌い続けているとも。。ストライザンドがシカゴに来たのは40年ぶりだという。大昔にソルジャーズフィールドでコンサートをしたとか。シカゴに来てほんとによかったと思った。64歳とは思えぬ力強い歌声を聴きながら、私もがんばろう、と力をもらった。彼女もきっと歌えるところまで歌い続けるに違いない。続けることが大事なのである。もう高いパンフレットもティシャツも買う必要は感じなかったけれど。。青春はいくらいつくしみ、振り返っても戻ってはこない。ただ前を向いて生きるのみである。死ぬまで生きるのみ。。一生に一度のストライザンドのコンサートだったと思う。青春という青い季節が人生でたった一度であるように。。

2006/11/08(水) 原稿と郵便局
イリノイ本の原稿をはじめて東京に送りだした。がんばれ〜〜〜それにしても、店でコピーした100枚に、透明の薄いプラスチックみたいな表紙をつけてもらい、左端に穴をあけて、くるくるばね状になったバインダー?をつけてもらったら、何やらかっこよくなった。やっぱり「かっこ」が大事なんだろうか、と問えば、そうだよ、という答える輩が多いのはよくわかってる。でも、中身がカスカスではやっぱり本にはならないではないか。。本はやはり、大衆がモデルが雑誌で着た服を争って買って喜ぶ、という世界とは違うのである。それにしても、今朝、大急ぎで郵便局にもっていったら、受け付けてもらえなかった。グローバルプライオリティで送るときは、郵便番号がなければコンピュータが受け付けないのである。コンピュータが牛耳る、馬鹿で不便な世界だ。。以前はそんなことはなかったのに。。。「東京」だけで受け付けてくれたのに。。。ところが今は。。。社会も人間も柔軟性を失い、みんな「携帯点おつむ」になっている。日本の小学生は、人をいじめるのもその子の個性、と言っているとか。確固とした人間観、社会規範もなく、他者と「つながる」意味ーつまり根をもって生きる感覚ーが非常に希薄で、あるのは目先と「かっこ」を変えるだけでどうやったら金になるか、そんなことばかり考える軽薄短小、コンピュータにつながれ、コントロールされて、人間が点になる社会なんて、実は地球温暖化で南極や北極の氷が溶けて、コンピュータも全部水の下に沈んでそれで人間すべて終わり、そのうち氷河期が来て、また生命は水からやり直しという前兆ではないだろうか、とぶつぶつ思いながら、車を運転して、郵便局から帰ってき、ウエッブで出版社の郵便番号を調べ、10分後、また郵便局のカウンターの前に立っていた。がんばれ〜〜〜、それだけである。

2006/11/07(火) 20年前のプリンター
大手出版社が「原稿を全部送ってください」というから、やっとプリントアウトできるフォーマットに直した。それから、それをかっこよくプリントしようと思ったが、インターネットがつながらず、新しいコンピュータにファイル添付で送れないので、いったんフロッピーに入れて、新しいコンピュータで開こうとした。ところが、開かず、全部文字化けして、新しいコンピュータまでぴかぴかとおかしくなってきたので、すべてあきらめて、最後の手段として、原稿が入っている古いコンピュータのプリンターで印字することにした。20年前のプリンターである。ぽつぽつドットを重ねいくやつ。。フォーマットと印字の大きさとやらをいろいろやってみて、やっと100枚に収まった。紙は、両端に穴がぽこぽこいあいてるやつである。リボンが古いので、印字はめちゃ薄い。ただ、これをコピーするときに、最近のコピー機は性能がいいので、けっこう薄くても、読める程度に出してくれる。で、100枚分をビービ−ビービ−絶え間なく言いながら、きのうの夜、今朝からともう5時間以上かかっている。たぶん全部で6時間はかかるだろう。それにしても、この20年間、故障することもなく、休むこともなく働き続けるプリンターを見ていると、いとおしさがわいてきた。20年前、配偶者がまだ大学院生だったとき、夜中の2時、3時までこのプリンターは動き続けた。このプリンターで私も本を3冊書いた。イリノイ本は4冊めである。これでもうリタイヤさせねばならないのだろうか。リボンさえあれば、プリンターは動き続けるだろう。紙だって、あと3冊は書けるほど残っている。もったいなあ。。それも、1度も故障することもなかった器械である。最後の最後まで使ってやりたいと思う。人間だって、最後の最後まで現役で生きたいではないか。。と言いながら、出版社に原稿を送るときに、もうインターネットで、添付ファイルで送るのは常識のようで。。。でも、古いコンピュタ−と新しいコンピュータを共存させると、ファイルもセーブも添付も何やらぐちゃぐちゃになっててしまって、きのうもフロッピーに入れてもらったと思った原稿は、前回はうまくいってインターネットで送れたのに、今回はぐちゃぐちゃのようだ。デスクトップに入れると、中身が自動的にほかのものと入れ代わるという”幽霊”原稿になってしまうのである。。ああ、今朝はもう3時間以上、このビービーと働き続けるプリンターの横で、時間を過ごしている。紙をうまく取りこむか見張ってやらねばならないのだ。不便だけれど、いとおしくもある。まじめに働いてくれればくれるほど、ますますいとおしい。。ああ、どうしたものか。。紙がなくなるまで、このプリンターを使おうかな。。あと、3冊、この古い壊れかけたコンピュータで書こうかな。。(笑) 20年前のプリンターのリボンなんて、ウエッブで売っているのだろうか。。。売っていなかったら、これで終わりなのだが。。。

2006/11/05(日) 金子喜一とコンガーさん
愛知教育大学の大橋先生から、金子喜一とコンガーさんに関する先生の論考がいっぱい届いた。感謝である。1900年初頭にシカゴに住み、全米初の社会主義フェミニズムの雑誌を創刊した二人、すごいなあ、と心から感服である。昔、福田英子(だったと思うけれど)の「妾の生涯」?とか大杉栄も読んだし、クロポトキンだかバクーニンが好き、とか言ってた時代もあったような気がするが、大杉栄と伊藤野枝だったっけ、なにやら「同志」になるのはいいけれど、しょせん「女たらし」だっただけなんじゃないの、と、男とは縁のない大足のシンデレラは、かれらが情熱と命を燃やした社会改革とは関係のないところで、かれらへの興味と関心を断ち切ってしまったようだ。今回、せっかくシカゴで生きた日本人社会主義者と出会ったのである。心して勉強してみようと思う。

2006/11/03(金) 沈没5−8
シカゴで知り合った元編集者の方が4社にイリノイ本の企画書を送ってくださって、全滅との連絡を受けた。日本に読者はいないだろう、とのこと。それだけ、シカゴとかイリノイとか中西部のことは知られていないということだ。。日本人が考えるアメリカが、東のニューヨーク・ワシントン、ボストン、西のロサンゼルス、だけというのなら、日本人のアメリカ観は非常に偏っているということだ。で、売れるか売れないか、だけで判断されるのなら、偏重したアメリカ観はそのまま増長されるということだ。。ああ、困ったものだ。アメリカをほんとに動かしているのは、中西部というか、たとえカリフォルニアでも田舎の保守的な人間たちだというのに。。まあ、予想された結果なので、少しずつぼちぼちがんばるしかないなあ。ニューヨークとロサンゼルスしか見ないというのは、日本といえば、秋葉原しか見ない外国人の目と同じということである。あああ。。。

2006/11/02(木) 教育
日本からのニュースを見ていると、中学生の自殺のニュースやら親の虐待事件やら、子供たちを取り巻く環境はもうぼろぼろのようだ。まともに必修科目すら勉強してない高校生もいるそうだし。。昔は、私のような文系の人間でも数3も物理までやって、大学を受験した。物理の試験はほぼ白紙で出したと思う。それでも大学に合格した。5教科を勉強?したのは何かの役に立っているような気がする。現在は「ゆとり教育」だか何だか知らないが、世界史を勉強しない高校生もいると聞いて、その一方で小学校から英語教育なんて馬鹿じゃなかろうか、と思ってしまった。世界史を勉強して、日本や日本人が世界の中でどういう位置にあったのか客観的に見る眼を養わずして、英語教育なんぞしても意味がないではないか。要するに、すべての教科を総合的に演繹的に見ようとする視点もコンセプトもないのである。携帯電話大好きの「点おつむ」が興隆しているということだろう。加えて、官僚が霞ヶ関のビルの中で頭でっかちに考えることと、日々の教育現場とは大きくかけ離れてしまってもいるようだ。思春期の娘のことを思うと、自殺した中学生たちのことも人ごととは思えない。教育をもう一度考えなおしたいと思って、もう10年も前、娘が11歳だったときに書いた学校教育に関する文章をアップすることにした。打ち直しながら、あの頃は、まだまだ娘の行く末におぼろげな淡い夢をもっていたことを思いだした。娘が通る思春期のことなど、あのころは想像もつかなかった。わかっていたら、私ももっと違った態度で娘に接してやれたろうに。。かわいそうなことをした。時間は残酷なものである。あと戻りできない。すぎた時間は戻ってこない。ただただ今はもう、娘が自分の将来を切り開いていく力を身につけ、前途が幸せなものであることを願うのみ。。どんなに苦しくても、若い人は絶対に死んではならぬ。

2006/11/01(水) アメリカ
リンカーンさんのことを書いてるのだが、彼もいよいよ連邦議員になって国政とかかわりはじめたので、アメリカ史など勉強したことがないままではかけそうにもないので、ちょろっとアメリカ大統領について書いてある文庫本をのぞいてみた。ああ、大変大変。。。むずかしい、アメリカという国は。。なにやら白人がこの大陸に足を踏み入れた植民地時代から、欧州の国際問題とからみあっていて、そのパワーバランスが国政にも反映して、はじめから二党対立があって、って感じで、理解するのにうんうん言う。大統領選の仕組みもむずかしいし。。。疲れる〜〜〜リンカーンなんてはじめるんじゃなかった。。その点、日本史って、国際問題が国政にからみあって国内で抗争がおきるという構図は、日本史のだいぶあとになってからなのでは。遣隋使、遣唐使は一方的な中国の文物輸入だったし、元がせめてきたら、みんなで一体になって”神風”を拝んだみたいだし、せいぜいキリスト教がやってきたときに大名間や幕府?と対立が起きた???あとは、幕府が倒れるときかあ。。。それから各種戦争。。やっぱりヨーロッパが顔を出しはじめると話がもつれるなあ。。肉食人種の性かあ。。。それにしても、アメリカといえば、歴史のない若い国と馬鹿にされがちで、歴史も短く簡単なのかと思えば大きな間違いだった。かつて「貝塚」からはじまった日本史は長くはなるけれど、アメリカ史のはじまりよりは理解が容易なのは確かである。


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