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2006/02/07(火)
メールと携帯
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ここ2、3日、誰からもメールが入らないという状況が続いている。広告すら入ってこなくなってきた。不思議だ。開放感が出てきたのである。確かに、誰からも何も来ない、という状況は当初は寂しかった。何やら「見捨てられた」ような気がしたものだ。ところが、それが常態になると。。。自分の仕事に集中、熱中する気になってきた。言いかえれば、他人から、たとえ広告主からでも言葉をかけてもらえることを頼りにしているあいだは、自分を見失っているということかも知れぬ。広い世界とつながっているという”喜び”はむしろ、一人よがりの幻想にすぎない、ということかも知れぬ。それは、電車の中で暇つぶしに携帯をかけて、べちゃべちゃたわいもないことをしゃべり続けたがる人間たちの心情とも似ているかもしれない。コンピュータという、私には訳もわからぬ世界であろうと、空間という人間存在に密着した現実世界であろうと、そこを言葉で埋め尽くしたがればたがるほど、その人間は自分を失い、脆弱な存在になっているような気がする。現代はメールや携帯は必要不可欠、なかったら窒息しそう、という言葉を読んだ。哀れなものだ。山田詠美が言ったように、言葉にできないものはないかもしれないけれど、言葉にする価値のあるものは、日々忙しくあふれるメールや携帯の中には簡単には見出せない、と思うからだ。安易なメールや携帯ごっこの氾濫は、マスメディアに踊る「電波ゲイシャ」と同じである。メディアが煽ったホリエという犯罪者の姿でもある。時には、メールも携帯もない世界で、自分が、自分の身体が一番何を欲しているかを見極める時間を持たねばならない。「人生、忙しくする暇ない」昔、サウスダコタで手に入れた言葉は、今も私が心に言い聞かせねばならない言葉である。たぶん、死ぬまで、だろう。生の充実感ーつまり自分が世界とつながっているという充足感は、自分に向き合う孤独感を自らの手で埋めていく地道な日常の営みの中にある。地道な営みは、忙しいメールや携帯電話、メディアといった情報過多の世界からは遠く離れ、ただ自己の清冽なとぎすまされた感覚だけを必要としている。
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