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2007/03/11(日)
親と子
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今朝、春休みで東海岸から帰ってきていた娘を空港に送ってきた。ほっとした。やっと出ていってくれたって感じ。(笑)1週間の滞在のうち、お互い甘い気分になれる蜜月期間はまあ最初の3、4日。2、3日前から、また親を批判しはじめた。その相変わらずの激しい口調に、ほれほれ、また家を出ていく時が来たんだね、と思いながら聞き流していた。お客と味噌は3日で腐る、は血のつながった親子にも言えるのである。いったん親の家を出た子は、もう親の家には戻れない。戻るべきではない。それが生き物の鉄則ではあるまいか。と考えていたら、父親が死ぬ前年の生まれてはじめての父親との言い争いを思いだした。「2度と帰ってこないのが本当の親孝行や」と言ってのけた父親。今、あの気持ちがよくわかる。いつまでも親の家に戻ってきて、ぐずぐず甘えているようでは、ルーザーになるだけである。言ってのけた父親はたいしたものだ。今の娘の様子では、まだ私には言えない。親にそう怒鳴られて、「2度と会えなくなると思って帰ってきてるのに、そういうことを言うのなら2度と帰ってこない。覚えとけ」と父親に噛み付いた私も相当なものである。我ながら感心である。(笑)そして、その答を聞いて安心したかのように、薬一つに世話になることもなく、道を歩いていて倒れて、それっきりで死んだ父親の死に様はすばらしい。あの言い争いが確かに父親との最後となって、私は「親孝行」をした。通行人が交番に知らせてくれて、呼ばれた救急車で運ばれた先の病院の看護婦が、「人間、こんなに簡単に死ねませんよ」と母親を慰めたとか。死に様が生き様を映しだすというのなら、私は、娘の世話にはならぬよう、自分の人生をどこまでも律していきたいものだと強く願う。娘は、振り返ることなくセキュリティのゲートの中に消えた。親も、振り返ることなく、子供を後に残して消えていかねばならない。あとに残されても、生きていける強さを、心を鬼にして子に教えねばならないのが親の務めである。どんなに子供に批判されようとも。表裏一体となった人の心の強さと寂しさを想うとき、親子の絆とはある意味で哀れなものだ。
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