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2007/08/30(木)
友達って
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コンピュータの様子がおかしくて、書きものを完成させても更新できなくなった。すべてが消えるかも、と脅されて、なにやら自分の存在そのものが消えてしまうような気がして落ち込んでしまい、書く気もうせてしまった。仕方ないから、ジュースでも作ろうと朝から赤紫蘇の葉をつんでいた。午前中は書き物の時間だというのに。。それにしても、ネットに自分の文章が載せられなくなると自分の存在が否定されてしまうように感じるとは、抵抗しながらもやはり私もネット社会に組み込まれてしまったということだろうか。というか、やはり自由な自己表現・発表の場所が与えられたということだと思う。書くという因果なことをしていない人にとっては、ネット社会で得られる自己表現と存在意義みたいな感覚は、ネットの友達ということかも知れない、とふと思った。このあいだ見たテレビ番組によると、ネットでひっかかって犯罪に巻き込まれている若い人が増えていると知った。悪いことをする大人たちは、ネット社会を釣堀と呼んでいた。つまり、”友達”−助けてあげるよ、励ましてあげるーを語ると、次から次へとカモがひっかかるという。で、ひっかかった若い人は、会ったこともない人間の言葉を「友達」と呼んでいた。哀れだな、と思った。性別も年齢も分からない人間を、なぜ「友達」と呼ぶのか。そう考えていて、思いだしたのは、「(日本に帰っても)多佳子さんは、友達なんかいないでしょ」と、とある人に言われたことである。かちんと来たけれど、めんどくさいから、「いないよ、アメリカにいるからもう感覚が違うしね」と一応答えたものの、考えてみれば、日本に帰ればいろんな人に会って、有意義な時間を過ごす。その人がどういう「意味」で”友達”という言葉を使ったのかわからないが、日本人って”友達”は多いほうがいい、多い人間がいい人だ、みたいな刷り込みはないだろうか。友達は多くなければならない、と思っているから、ネットで流れる空虚な言葉のやりとりでも、「友達」となづけたくなるのではないだろうか。友達って何? 数をそろえなければならないから、プリクラの写真を競う? ああ、かわいそうに。ネットに流れる空虚な”友達”も数のうちか。。。先日、10年ほど前にダコタで別れたきりになっていたベッキーから、多佳子を見つけたよ、今、カリフォルニアいる、おいでよ、と連絡が入った。いっしょにバーのカウンターで、ダコタの愚痴をこぼしあった人である。顔を見て、お互い響きあう心を共有しあった人とは、長年会っていなくても、「懐かしいねえ」という気持ちが”会いたいな”につながる。会うと、まるできのうも会ってたような気分になって、話がはずむだろう。ベッキーって友達?? そんなこと、どうでもいいや、ベッキーに会いたい、それだけである。ネット社会で調子のいい言葉を交わしただけの人間を”友達”って呼ばなければならない社会って何?そんな社会で、私には「友達がいない」と人に思われているらしい、というのはもしかしてまともな証拠??(笑)少なくとも、「多佳子さんは友達がいないでしょ」という人とは友達ではないな。。(笑)
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