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2010/02/14(日)
自分に勝つということ
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けさ、パラリンピックの選手のことを考えていて、「自分に勝つ」と書いて、すぐに、自分が「ひまわりの会」で考えていることとは矛盾していることに気づいた。会では、自分に勝つースポ魂賞賛に反対しているのである。矛盾がどこから来ているのか、と考えて、すべての人間は、公と私の部分をあわせもって、ひとつの存在となるのでは、と思いついた。大きな女優なりがマスコミでとりあげられると、まるで、自分だけが一抜けた、自分は劣等感を克服した「勝ち組」という態度でとりあげられるのである。私は、それは傲慢だと考える。自分だけが劣等感を克服しているで満足してしまえば、悩みの再生産はとめられず、それは一人の人間がもっている「公」の部分を無視する態度ではないだろうか。身体障害者が障害を克服してーつまり自分に勝って、競技大会に出て活躍するのは、一人の人間の「公」の部分が直接的に見るものに迫ってくるからではないだろうか。かれらの存在自体が「公」の意味をもっている???
マスコミにとりあげられる人間だけが公人なのではない。すべての人間が、公と私の部分をもち、その両方のバランスをとりながら、生きていくべきなのではないか。とかく、個人的戦略のみで目立つ人間を、成功者として、メディアはとりあげたがる。公器であるメディアの貧困さと呼ぶべきだろう。自分に勝つことを、より広い文脈でとらえて、自分の生がどんな意味をもつのか、を見据えること。。。それが、生まれてきたすべての人に役割が与えられている、という意味かも知れない。
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