〜ing〜アメリカつれづれ日記
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2011/01/29(土) アメリカで見つける「日本」
何ケ月かぶりにガラクタ屋へ出かけていった。誕生日が来て、また一つ年をとったから、何か新しいことをしようと、ウィスコンシンまで出かけていった。行ったことのない大きな店である。5時間も時間を過ごしてしまった。で、買ったものは。。。「大日本」と書いてあるものである。(笑)「大日本加藤造」と裏に書いてある、汚い小さなソーサーとか、「大日本憲兵隊検閲済」という判が押してあるフィリピンで発行された初日カバーの封筒だとか。この店には、日本陸軍の水筒だとか、めがねとか、軍刀だとか、日章旗や海軍の小旗とか、「風神」と赤く書いてあるはちまきだとか、箸箱まで並んでいた。戦利品として持ち帰ったものだろうなあ。水筒に箸箱、めがねとなると、倒れた日本軍の兵士の体からとってきたものか???(悲)これまでは、占領日本が作っていた小さなおもちゃ(made in occupied japanと判の押してあるもの)を買ってたのだが(今日も買った。。。笑)、今日はなぜだか「大日本」にものすごく惹かれてしまった。占領日本の字を見て、ああ、日本はここからはいあがったんだ、と思うと、元気が出ていたのだが、いよいよそれ以前にさかのぼって、もう今の日本には口が裂けても言えないだろう「大日本」が言えた時代の日本人の気概に心から惹かれたのである。(笑)今日買ったフィリピンで発行された封筒には、切手が二枚貼ってあって、カタカナで、フィリッピン ユービン、バタアン コレヒドール カンラク 一シュウネン キネン ショウワ 18ネン 5ガツとある。フィリピンの通貨 センタボまでカタカナである。一だけ漢字である。(笑)こんな切手見たことないよな、で買ってしまった。(笑)
バターンの死の行進がいつだったのか調べてみなければわからないが、陥落1周年記念が昭和18年だったのなら、昭和17年ー1942年なのだろうか。こういうものを見て、日本はフィリピンを侵略した、悪いことをした、と言い、戦争といえばとにもかくにも悪の枠組みでしか捉えられない人に会うが、今の私は、戦争=悪も単なるセンチメンタリズムにすぎないと思う。大東亜共栄圏がいいものだったなどといえば、そりゃもう右翼の塊ー悪としか見ない人がいるが、だいたい思想を持つということが右翼としか思えないようで、それはアメリカ主導の戦後教育が日本人に教えたことだと私なんかは考えている。戦争=右翼=悪とし、アメリカは日本人が思想を持たないようにしつけたのではないのか。が、現実はもっと厳しく、戦争すら戦略の一部に取り込んで、時には脅したりひいたりしてでしか、現実は進まない。ところが、とにもかくにも戦争は悪という美しい総論だけを掲げていれば、誰にも反対はできず、それでなんとかごまかせば、ことがすむ、でやってきたのが戦後日本なのではないか。で、今の閉塞状況である。きれいごとでは、物事は進まないのである。誰にも反対できないきれい事の総論をまず掲げるのは、むしろ逃げなのである。アメリカ人だって戦争が悪とわかっている。が、時には、その戦争すら肯定せざるを得ないときがくるーそういう現実の厳しさを、ガラクタ屋に並んでいるものを見ていたら、つくづく感じてしまう。ナチス第三帝国の腕章やらアフリカ系やインディアンのderotagoryの人形やら、またまたアメリカ軍の訓練教育本に軍服など、田舎のガラクタ屋には、この国の来た道がつまっている。どんな形であっても生き続けるのはほんとうに大変なことである。ガラクタを5時間も眺めながら、さあ、また今年一年、がんばろうか、と自分にハッパをかけた。

2011/01/25(火) アメリカのシステム
もうすぐ誕生日だ。2年前の誕生日明けに、アホ女への抗議書を弁護士に提出した。去年の誕生日に、右目の手術をした。今年の誕生日は。。特に何もなさそう。。よかった。。(笑)この2年、システムがどう動くかじっと観察してきた。抗議書を提出したのも、考えてみれば、システムに給料課の実態を知らしめねばならないという気持ちが強く働いていた。人事部のトップは、給料課が、一人のアホな人間のためにどんなに腐っているかを知らないというのは間違っている、という気持ちがあったからだ。腐りきってたから、私がシステムを動かすには、人種差別という重い言葉を使わざるを得なかった。使えば、どう動くか興味しんしんだった。無事に私は欲しいものを手に入れたが、あのバカ女は、オフィスの位置こそ、トップの横から倉庫に変わり、仕事は干されている模様だし、一年間は謹慎処分が出ていたような感じ。。今、また何かやらかしたのか、このごろは静かである。(笑)でも、システムはあの女を切れない。つまり、首にするとか、給料が下がるとかである。いったい公務員のシステムはどうなってるのか、とつくづく首をかしげてしまうが、実態は万年ニューディールの福祉政策のような職場だから、まあ、30年以上勤めた人間の給料を下げるには、法律の裏づけが必要なんだろうな、と考えている。それでも、この2年、面白いなあ、と思って見ていたのは、人事部は、たぶん私のケースを使って、全キャンパスの従業員のトレーニングをするのである。去年ぐらいまでは、人種差別、いじめ、どうのこうのを実例からトレーニングするというセッションが、参加者を募集していた。今日、回ってきたトレーニングの情報によると、職場で、倫理違反があったときに、どのようにして、その違反行為を職場で知らしめるか、というトレーニングがあるそうな。思わずにやりとしてしまった。いまだに、私の抗議書余波が続いている。つまり、個人の問題から、部全体へと視線が移動しているのである。考えてみれば、給料課の一番の問題は、もう一人の上司が、腐った一番上に、そんなことをしてはいけないよ、と告げられなかったことだ。要するに、誰もあの腐った女をコントロールできなかった。調査員が調査に入ると、18ページもシングルスペースで報告を書かねばならないぐらい、あの女の悪行がみんなの口から飛び出してきた。私がパンドラの箱をあけたのである。でも、人事部のトップにその悪行を知らしめる人がいなかった。ずっと前に誰かが報告していたら、私も右目を痛めずにすんだのである。誰も報告しようとしないから、長年バカ女は調子に乗っていた。。それで、部全体が腐ってしまったが、それを止める手立てがなかった。。そこが一番の問題だったのである。そういえば、私がまだカウンセラーに行ってたおとどし、カウンセラーに聞かれたことがあった、タカコ、ドナは、(バカ女)と30年もいっしょにいるでしょ、(バカ)にそういうことをしてはいけない、と言ったと思うか。。とんでもない、そんなことするわけないよ。言わないことでしか、自分の身を守れないんだから。。あれは、操り人形だ、と私は答えた。カウンセラーは黙ってしまった。(笑)あれから1年以上、まだまだくすぶっている様子。これからこの職場はどう変わっていくのだろうか。(笑)でも、アメリカのシステムって面白いなあ、とつくづく思う。何があっても、それをすぐに、よりよいものに変えていくための材料にしようとするのである。だから、反応が早い。。それに比べて、日本は。。。何をしようとしているのかさっぱりわからぬ。。とうとうこのごろは、日本のニュースを見る気をまったくなくしてしまった。いつも同じことの繰り返し、のようで、何がしたいのかさっぱりわからない。。(怒悲)アメリカのシステムの中で生き残るには、自分が全体の中でどういう位置を占めているのかをじっと凝視して、その時々に自分にとって最善の道を自分で選ぶことだ。日本みたいに、何をしたいのか、どこへ向かおうとしているのかさっぱりわからぬ不透明の中で、人間関係の甘えだけで、ぐだぐだ同じことを繰り返し、時間つぶしをしていては、アメリカのシステムに完全につぶされてしまう。必ず生き残って、笑いとばしてやる!!!アメリカ大統領に噛みつくこともぜんぜん怖くないぞ。。それに比べて日本は。。あの小沢というおっさんすら誰にも切れず、ぐだぐだやってる。。哀れなことだ(笑)

2011/01/24(月) 極寒のプール
きのうの朝、起きると、気温は華氏でマイナス10度。摂氏に直すとマイナス20度???ようわからん、わかりたくもない。(笑)でも元気を出して、プールに泳ぎに行った。まさかこんな日曜の朝に、プールに来る人はいないだろうと思ったからだ。行って、びっくり。うじゃうじゃいる。一つのレーンを二人の人で使わねばならないほどである。それも6レーンか8レーンすべてその調子である。こんな大繁盛、初めてである。それで気づいたのが、外気がこれだけ冷たいと、プールの水はまるでお湯につかっているような感じになるのである。ちょうどタイだかメキシコだか、とにかく熱帯で泳いでいる感じ。。温水にはなっていないと思う。。ここのプールは、夏に入ると、氷水にでもつかっている感じなんだから。温度そのものは変わっていないのでは。。というわけで、極寒の冬こそ、泳ぎに行くのが楽しいというパラドックスを発見。。(笑)もう一つ、うれしかったのは、日曜の朝だというのに、教会に出かけずに、泳ぎに来る人がいることだ。まだまだこの町も捨てたもんじゃない(笑)

2011/01/20(木) やっぱり
アメリカはいいなあ。。(笑)今日は、シカゴまで出かけていった。で、帰り、地下鉄に乗るときに、階段を駆け下りるのが遅くて、目の前でドアが閉まってしまった。もう一人、アメリカ人がいて、ああ、this is story of my lifeみたいなことをぶつぶつ言ってたら、なんと目の前でドアがあいたのである。もう動きだすだろう、って感じで、しばらく閉まっていたドアが、走りだす代わりに、ぎりぎりで乗り遅れた乗客のために、再びあいたのである。おお、ラッキー、だからアメリカ好き、と思ってしまった。(笑)要するに、いい加減というか、おおらかというか。。こういうことはバスではあったが(バス停とか、あといったん走りだしても、追いかけると、すぐに止まってくれるとか。。)でも、電車はこの25年のアメリカ生活で初めてである。好き好き、シカゴ。。(笑)

2011/01/18(火) ゴーカートライフ?(笑) 
きのうから、雪と氷のために、遠出ができなくなっている。雪だけならまだしも、気温が上がって、雪が雨になって降り、それが、また零下の気温で氷になって凍って、となってくるとやっかいである。その上にまた雪が降ってとなって、雪の下に氷となると、いくら注意していても、車が四辻(おお、なんと古臭い言葉。。笑)でうまく止まらなくなる。もう、今年の冬は、そのために2回もゴーカートをやってしまった。つまり、止まろうとして、ブレーキを踏んでも、停止サインの手前で止まりそうにない、とわかったら、標識サインなり、道路の雪かきでできた雪山に、わざと車をぶつけて止めるのである。先週は、右折したい四辻で止まりそうになく、走ってくる車にぶつかるよりはまし、と思って、ぶつけてやれ、と標識サインに向かったのだが、標識の前に雪山があったおかげで、車を傷つけることもなく、無事に止まった。ところが、さっきも、やってしまった。信号で止まらねば、とブレーキを踏んだのに、なんと加速するのである。こりゃだめだ、と思って、ハンドルを右に切って、これまた雪山にどお〜〜〜ん。ゴーカートごっこは楽しい。。(笑)反対車線や、私の後ろにいる車は、きっと見ていて、あんまりいい気持はしないだろうなあ。。まあ、無事に車も動くことができて、難なしで終わったが、二度あることは3度あるで、今度は、なにやら走行中の車とぶつかりそうで怖い。。というわけで、今晩は、借りてるDVDを返しに、日本人村まで車を1時間走らせるつもりだったが、断念した。延滞料を払うほうが、自分や他人の生命を危険にさらすよりましである。と、なってくると(きのうも、シカゴまで出たかったのに、アポをキャンセルしなければならなくなった。。悲)、別に寒いのは気にならないし、ゴーカートごっこもだいぶ慣れてきたが、やっぱりそろそろ早く春になればいいのにな、という気になってきた。あともう2ケ月は、雪に埋まってるだろう。ガマン、ガマン。。。ゴーカートを喜んでいたら、バチが当たるに違いない。。無事に、冬が越せますように。。

2011/01/14(金) 同化への道??
職場で、古株のおばさんが二人同時に今月退職する。別に仕事で関わったわけでなし、いてもいなくても同じなのだが、一つだけ気になるのは、一人の人が、なぜだか知らないが、毎日、すれ違うときに元気よく大きな声で、「Takako, How are you?」と声をかけてくれてたのである。ところが、ミソは、絶対に目はあわさないのである。(笑)田舎のおばちゃんのことだからほんとはわけのわからぬ人間に声などかけたくなかっただろうが(そういえば2年前、若い子が、私が怖い、と完全に私を無視したときは、問題を表面化させてやれ、と詰問したばっかりに、1日出勤停止処分を受けたのだった。。笑)わざわざ私に対する恐怖心をとりのぞこうといわんばかりに、自分を奮いたたせるようにして、無理して声をかけてくれたんだろうと思う。でも、その心意気がうれしいではないか、ということで、退職していく二人にメッセージを、と回覧メールが回ってくるたびに、その元気のいい挨拶がありがたかった、とほめてきた。(笑)で、気づいたのだけど、この典型的大声の挨拶こそ、もしかしたら、私の生活を、いやみんなの生活を楽しませるものかも知れない、ということである。日本でも、言うではないか、挨拶のできないものはだめだ、みたいな。。でも、フレンドリネスが大事なアメリカでは、元気のいい挨拶がもっと重要視されるのである。だいたい、トップの秘書のオフィスの前に座っていると、この人が高校時代かに演劇部に入ってたか、で、そりゃもう、トップが来たときの挨拶といえば、世界中に聞こえるぐらい元気よく、愛想がいい。。やっぱりこれができなけりゃ、だめなんだろうな、とつくづく思う。トップの声も大きい。大きい声で、タカコ、と声をかけられても、それとおんなじ感じで、挨拶が返せないことがいやで、トップが来たと知ると、そろっと顔をあわせないようにキュービクルから抜け出すのが今の状態である。(笑)もうすぐまた誕生日が来る。毎年、自分の何かを変えていこうとするのも楽しいかも。。もうそれほど、時間は残ってはいないのだから、ここらあたりで、腹をくくって、新しい自分に挑戦だ!!!今年は、このアメリカ式の、いつも機嫌よくの大声の挨拶に挑戦???これって、いよいよアメリカへの同化の道???いや、にこにこ元気よく挨拶して、刺すときは必ず刺してやる。。これって、要するに、たちが悪くなるだけ??それとも、処世術にたけるだけ??? (笑)

2011/01/12(水) 二兎を追うものは一兎も得ず
日本からのテレビで、アメリカの情報を得ている。(笑)テレビはあるけれど、アメリカのテレビが映るプログラムをもってないからである。日本語を忘れないように、と思って、日本からのテレビは、ニュースや見たいドラマだけ見ている。今日のトップニュースにびっくりした。アメリカでは、インターネットテレビがおおいに普及しつつある、というニュースである。そんなもの、聞いたことないよ、である。(笑)家のテレビは、アメリカのローカルニュースすら映らないのに、何がインターネットテレビだ!!(笑)で、そのニュースに出てきたアメリカ人が、テレビを見ながら、株がチェックできるのは有難いなどと言っていた。アホか。株の売買は一切知らないけれど、テレビを見ながらできることなの。気が散ったら、大事なことを間違えるんじゃないの。隣の嫁さんは、友だちとチャットしながら、映画が見られるなんて、とか何とか。。。あんたら、一日中テレビの前に座ってるつもり???二兎を追うものは一兎も得ず、という諺を知らないのか。知らないんだろうなあ。 ポップコーンを大きな音を食べながら、静かな映画でも見られるアメリカ人だからなあ。。。でもまあ、その手の人間は、映画館に出てこずに、一日中映画やらインターネットやらで、家のテレビの前に釘付けになってるのかも知れぬ。それは有難い。。(笑)それにしても、こんなアホなことがトップニュースとは。。やっぱり世も終わりだ。。(笑)携帯電話ももたず、まともにテレビを見ることもあんまりない私は、いよいよ洞窟生活を始めねば。。洞窟で、純な本物だけを追いかけるーそれが幸せというものだ。。(笑)そのうち、携帯電話テレビというのも出てくるんだろうけれど、そうやって器械漬けになった人間は、絶対に幸せにはなれないと私は確信している。幸せとは、身体を動かして、人や自然との交流に五感を働かせて生まれる、宇宙のエネルギーとの一体感にほかならないから。どんな指を動かして、ボタンを押して、あらゆる情報をくりくりしても、たった一人の人が自分に向かって笑ってくれる、その笑顔にまさるものはないのである。まあ、インターネットテレビがどんなに大事なものか知らないけれどートップニュースだから大事なんだろうなあー、テレビの前に釘付けになって、カウチポテトになって、そのままおとなしく消えてちょ。インターネットテレビを有難がる馬鹿は、家の外には出てくるな。(笑)私は、通りに出て、ただただもくもくとゴミ拾いをするぞ!!!(笑)

2011/01/07(金) 家庭・家族
私は、小さいときから、親から「おかしな子や、おかしな子や」といわれて育った。親の言葉を内面化させて、自分はおかしい、と思いこんで、人生のかなりの時間を生きてきたが、ほんとにおかしいのは、親、とりわけ母親のほうだと思って、母親と距離をおくようになったのは、社会に出てからしばらくたってからだった。世間を知って、うちの親はかなりおかしい、こんな親のエネルギーをまともに吸い込んだら大変だ、と逃げ出したのである。そんな私を、やっぱり世間も「おかしな人」と言った。自分のおかしさは、いったいどこから来てるのだろうか、と、ずっと考えながら生きてきたような気がするが、今日、その「おかしい」の権化にたどりついたような気がする。おかしかったのは母親だけではない、母親の家族のダイナミズムがかなりひずんでいたのである。神戸に一人残している母親には、兄が一人いた。わずか一駅隣にである。今日母親から、その兄ー私の伯父ーが、去年の6月にすでに亡くなっていたと聞いた。なんと兄嫁は、妹である母親を葬式にすら呼ばなかったのである。ほんとにおかしな家族に私は育てられたものだ、と気分が悪くなるほど感心してしまった(怒悲)。実は、今から30年以上前、まだ私がOLをやってたころ、伯父と私は大阪駅で毎日同じ快速に乗って、神戸に帰っていた。そのことを母親に言うと、母親は、知らん顔しときよ、と言った。おかしいな、とは思ったが、めんどくさいから、母親の言葉通り、知らん顔をしていた。伯父が私の顔を初めて見て、おお、大阪駅のプラットホームで毎日見てた子や、と気付いたのは、私の父親の葬式の時だった。父親の葬式に母親の兄嫁は、孫の子守があるとかで来なかった。父親が兄嫁を嫌っていたといつか聞いてたから、そんなものかと思っていた。どうせ義理同士ではないか。あのとき、伯父にビールを注ぐと、初めてたかちゃんにビールを注いでもらうなあ、とうれしそうに言い、たとえ口先だけだったとしても、何か困ったことがあったら言いにおいでや、と言ってくれた。ありがとうございます、と礼を言った。あれだけが私の記憶にある伯父の顔と声である。父親が道で倒れてそのまま息を引き取ったとき、動転した母親は父親を見られず、遺体確認に伯父を病院に呼んだと聞いている。たとえ仲が悪かったとしても、やっぱり兄は妹の世話をしてくれたのである。それなのに、まさか兄が死んでも、妹にそのことをしらせてもらえないほど、おかしな家族だったとは。。。。父親が死んでからのこの17年ほど、私はずっと伯父宅には年賀状を送っていた。もちろん返事は一度もなかった。かまわず去年の暮れも一番に出した。そのときにはもう伯父はいなかったことになる。あのおばさん、かなり変なばあさんになってるんだろうなあ。といっても、もう40年ぐらい会っていないからーたぶん母親の母親の葬式以来ー、どんな人か知らないけれど。。職場の馬鹿女と同じぐらい、姑息で意地の悪い女なんだろうなあ。。私の母親も姑息で意地が悪いから、いろいろあったんだろうなあ、とは思うけれど、可哀想に家族の縁の薄い人には間違いない。こういう家族のダイナミズムで育った私は、いったいどういう人間なのだろうか。やっぱり相変わらず、かなり変わっているとは思うけれど、母親のところみたいに意地は悪くはない、と自分では思っている(笑)人間が持つ問題点のすべては、家族・家庭から始まっているのである。絶対に選べない家族。家族をどう乗り越えるかーそれが生きる課題のようなものだ。 母親は偶然、腹違いの妹になるおばさんから、兄の死を知ったようだが、おばさんは、兄嫁から、誰にも言わんといてくれ、と言われているそうな。要するに、母親には知らせるな、ということだったんだろう。母親は、誰にも何も言わずに、家族だけですませるのが簡単なんだから、と強がりを言った。そりゃそうかも知れないが、あんたは家族じゃなかったのか。妹だったんだろ。。意地の悪い妹だから、嫌われてたんだろうけどなあ(悲)つまるところ、兄嫁は、母親の最後なんて知りたくもないということなんだろうが、伯父の死は知らないことにせねばならないのだから、私はこれからもあの家に年賀状を出し続けることになる。それでいいではないか。人間としてするべきことは、最後まできちんとしてやるのだ。それが、母親に対する私のrespectというものである。それにしても、おばさんよ、あんた、まともな死に方、絶対にしないと思うよ、まあ、覚悟してたほうがいいよ。あんたもきっとおかしな家族・家庭で育ったんだろうなあ。でも、考えてみれば、みんなすました顔で、私はまとも、なんて言ったりしたりしてるけれど、ほんとはみんなおかしいんだよ、きっと。パーフェクトな家族、家庭なんて絶対にありえないんだから。私はおかしい、と認識している私のほうが、よっぽどまともだ。(怒悲)

2011/01/04(火) 変なニュース
1月4日付けのニュースである。ええっ、と思ったけれど、よく見ると、凋落は去年の12月25日のこと。私が行く前のできごとである。それがなんで今??? 観光業界に打撃なんて嘘だ。。いっぱい観光客いたよ。。個人旅行の日本人カップルもいっぱいいてびっくりしたよ。カッパドキアツアーでいっしょになったのが全員日本人だったから、思わず、日本からの何のツアーですか、と聞いてしまったよ。(ハネムーンツアーかと思っていた笑)すると、ツアーではありません、としかめつらされてしまった。偶然、日本人ばっかり集まったらしいのである。カップルではるばるトルコまでか。。すごい。よっぽど仲がいいんだろうなあ。価値観、人生観が違っていたら、けんかだらけになるような土地である、トルコって。そういえば、友だちは、新婚旅行にエジプトに行って、旦那とはいつも別行動だったと言っていた。私は、新婚旅行にエジプトを選んだと聞いて、その友だちに興味を抱き、友達は最近無事に離婚した。(笑)****
キノコに似た形の奇岩が連なる景観で知られるトルコ中部の世界遺産カッパドキアで、とがった大きな岩のひとつが崩落した。風雨による浸食が原因とみられ、カッパドキア観光で成り立つ地元の町ギョレメの関係者は衝撃を受けている。

 崩落があったのはギョレメにある高さ約25メートルの岩で、12月25日朝、岩の南側が崩れた。住宅地に隣接していたが、けが人などはなかった。観光業者の話や地元報道によると、この岩には1965年ごろまで実際に人が暮らしていた。小さな崩落が起きたため、4年前から立ち入り禁止になっていた。

 カッパドキアには、ローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教の修道士らが4世紀以降、岩をくりぬいて造った住居や宗教施設が多数残り、85年に世界遺産に登録された。トルコ屈指の観光地で、年間200万人が訪れる。地元関係者は観光への影響を心配している。一方、専門家は「点検は常に行っている。ほとんどの岩は問題ない」と話している。(ギョレメ=北川学)

2011/01/03(月) イスタンブール
無事に今朝戻ってきた。そして、そのままオフィスへ。今日は仕事初めである。時差ぼけがいつ襲ってくるかわからないから、必死でガムを噛みながら、コンピュータの前に座っている。イスタンブールーすごいところだった。なんでもっと早く行かなかったのかと思うけれど、今回チャンスが与えられたことだけでも感謝である。オスマン帝国だのヒッタイトだのギリシャ正教、ローマ帝国などなど、大昔に歴史の教科書で習ったようなことばかりがばんばん出てきて、ドイツで出会った神聖ローマ帝国と同じくらいめんくらったが、ドイツと違うのは、イスタンブールにはものすごいエネルギーが渦まいていることである。毎日5度、すべてのモスクから聞こえてくるコーランの祈りの声をもう一度聞きたいと思う。30年以上前にインドのタージマハールを初めて訪れたときから、イスラムのモスクにものすごく惹かれてきたのだが、今回、その思いをますます強くした。なぜだか知らないけれど、キリスト教会より、モスクのあの高い丸天井や、大理石の壁面をおおうタイルのデザイン、そしてアーチの光と影にものすごい魅力を感じるのである。そして何よりも、メディアの暴力をつくづく感じた。イスラムといえば、とにもかくにもわけのわからぬ悪という感じでとりあげるではないか。とんでもない。。。アメリカよりずっとゆったりとした人々が、淡々と生きていた。何の予備知識ももたずに出かけて行ったが、食べるものはおいしいし、人々の様子は日本人に近いしーアメリカ人みたいに、にこにこしない。。。笑、インドのようにごみと汚染にまみれているわけでなし、まったくのヨーロッパの都市なのだが、それでもアジア的混沌さもあって、まさしくアジアとヨーロッパをあわせもっている魅力たっぷりの町だった。いつかもう一度行ってみようと思う。エネルギーをいっぱいもらって、今またこの職場に戻ってきた。新しい世界を見て、心が大きく広がっている。エネルギーの循環にほんとうに感謝。また絶対に行くぞ!!!(笑)シカゴのオヘア空港からは、フランクフルトでもイスタンブールでも直行便が出ているわけで、ああ、オヘアからは絶対に逃げられない。。(笑)


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