〜ing〜アメリカつれづれ日記
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2011/11/28(月) 台風一過
今朝は、オヘア空港の娘からの電話で起こされた。昨日の夜、シカゴに泊まって、今日、オレゴンに向けて発った。時計を見て、びっくり。もう7時ではないか。今日は、早めに職場に出て、久しぶりにシカゴに行くつもりだったのに。。。で、気付いた。とにかく眠たい。この調子では、シカゴまで出ていけそうにないなあ。。で、夜の居合のクラスをさぼってしまった。(笑)夕方4時に無事に家に帰ってきてから、寝たこと寝たこと。考えてみるに、日本から帰ってきた翌日に、娘が帰ってきて、あとはばたばたと。。家の掃除、来客、マージャンやったり、ショッピングに付き合わされたりと、気持がゆっくりする暇がなかった。やっと時間ができて、自分の身の回りを見回すことができるようになった。これから、また日々の生活のたてなおしである。また日本に行くから、それもそのまま日本に居座ることになるかも、だから、そのあたりのタイミングもはかりながら、準備をせねばならぬ。まだまだ私の人生の最大の台風は過ぎ去ってはいない。過ぎ去ったとき、たまらなく寂しくなることを覚悟しながら、ぼちぼちやるしかない。(悲)

2011/11/25(金) 感謝祭
7年ぶりぐらいだったらしい。家で感謝祭のターキーを料理して、食べたのは。。娘がオレゴンから2年ぶりに家に帰ってくるというので、配偶者は実家に戻るという慣例をとりやめて、今年は家で料理をした。私にとっては、7年ぶりに、一人ぼっちの感謝祭ではなくなった。加えて、大学院生のネパール人の5人家族も招待した。賑やかな夕飯となった。父娘が朝から台所で、あれやこれやと忙しく料理する声を聞きながら、ああ、これがアメリカ人が好きな”ファミリー”か、と納得した。(笑)アメリカ人の思想は個人主義ではなく、ファミリー主義である。個人主義を言うのは、自分たちがヨーロッパとつながっていることを強調したいからであって、ほんとのところは、フロンティア精神ーつまりファミリー主義なのである。私の居場所ではないなあ、とつくづく思ってしまう。(悲)日本人の思想は、ファミリー主義でもなく、家主義だろう。家主義とは、家を村とも置き換えられる権威主義の枠組みである。要するに、日本人の家族観はヒエラルキーで成立する内部構造をもっているという意味である。そんな家族観が国家観となって、天皇を仰ぐ政治体制となっていたのが戦前日本だろう。私は、父親を頂にそえた家、権威主義が大嫌いだった。母は、病気になっても、「お父さんを大事にせな」と言ったからぞっとした。”お父さんのご機嫌”をとるためには、娘すら犠牲にしたのがあんたの生き様だったではないか、と昔の怒りがよみがえった。(悲)母は、父親の前では、娘を守ろうとは一切しなかった。男の力を前にすれば、女は女を平気で裏切る、と私は母親から学んだ。その息のつまるようなヒエラルキーから逃れるために、私はアメリカにやってきたが、アメリカでも、私が心地よく思える人間関係は見つからなかったように思う。アメリカのファミリー主義には、ヒエラルキーはほとんど感じられない。親子は同じ土俵に立っているかのようだ。そんな親子関係は、私の身体感覚にはなく、今だに娘のやり方になじめないこともある。そして、思うのである。ああ、人とは、生きるとはなんと孤独なものなのだろうかと。だから、感謝祭があるのだろうか、とも。たとえいっときでも家族として集まり、食べて、恵みに感謝して、そしてまた来年のそれを楽しみにして、ちりぢりばらばらになっていく??? それにしても、滞米生活25年を経て、やっと感謝祭をまっすぐに受け止められ、ターキーが平気で食べられるようになった気もする。来年から配偶者はまた実家に戻るだろう。今年は親に会えずに寂しそうだった。私は、居心地のいい家庭環境をもつことなく育った私らしく、一人で過ごすことになるだろう。それでいいではないか。。私にとって”ファミリー”とは、いつまでたっても、しょせん机上の空論、夢物語でしかないような気がするのである。(悲)

2011/11/23(水)
このごろ猫の様子までおかしくなってきた。食欲が落ちてきたのである。(悲)なんでもぱくぱく猛烈な勢いで食べてたシナバーがえさを残すようになり、その上、よく吐くようになってきた。弱ってきたのかなあ。。。もう17歳ぐらいだもんなあ。。シャムネコは20歳ぐらいまで生きると聞いたような気がするが。。。猫も、母と同じで、食べられなくなったら終わりなんだろうなあ。人間だよなあ、ごちゃごちゃ人工的な処置をして、延命行為をはかるのは。。猫に延命行為をする人、いるのかなあ。。。猫のほうが、よっぽどシンプルに美しく生きるんだろうなあ。。。悲しいなあ。。。(悲)

2011/11/22(火) let her go
昨夜、日本から帰ってきて、再び職場のコンピュータの前に座っている。11月9日の朝4時すぎ、電話が鳴った。寝ぼけていた。医者が言った、「あぶないです」。その8時間後には、成田行きの飛行機に乗っていた。成田に着いてすぐ、病院に電話を入れた。看護婦が言った、「落ち着いていらっしゃいますよ」深く、深くほっとして、関空行きの飛行機に乗った。あの晩、生まれて初めて病院に泊まった。母はしっかりと覚醒していて、はっきりと話し、いっぱい話をした。帰米する当日、主治医がゆっくり時間をとってくれて、ていねいに話をしてくれた。急変することがある、そのときは間に合わない、を私に納得させるのが主目的だったと思うが、それでも彼自身の死生観も語ってくれたから、これまた深く、深く納得した。母はもう生きているだけでもしんどいだろうと思われる段階だ、が、彼の眼である。そうかも知れぬ。シカゴに戻ってきて、空港で配偶者が一番に言った言葉が、let her go だった。そうかも知れぬ。病院で母がはっきりと言った、長いこと、休ませてもらった、と。そうだね、と答えたけれど、休んだあとで、じゃあ、これからどうしよう、がないのである。(悲)母は、この2年ほどは、覚悟しての準備の段階にあったと思われる。家の中がきれいに片付いているのである。去年の今ごろ、「お父さんはいいことをした」と言っていた。道で倒れてそれっきりだった父の死に様をうらやましがっていたのである。身体の内部で何かが起こっているのを自覚していたのだろう。「もう二度と会えないかも知れないから」と、母は私を玄関の外で見送ってくれた。少なくとも表面的には元気な姿を見たのは、あれが最後となった。友人は、年を重ねると、死を力んで考えることがなくなった、と教えてくれた。母も、もうたぶん力むどころか、死者との対話が多くなっているだろう、と別の友達も言う。「私がいなくなったら、お父さんをよろしく頼むよ」と病院で母は私に言った。(悲)let her go..主治医の言葉を思い出すー毎日、世界中で多くの人が亡くなっているんですよ、客観的になってください。自分の人生と彼女の人生は別なんですよ。あなたは自分の人生を生きねばなりません。最後に私ができることは何か。。。家族との話しあいがつけば、日本に戻ろうと思っている。人は、日米の距離を大変ですねえ、と言うが、距離と時間の長さはそれほど気にはならない。ただただ、医者が再び「あぶないですよ」を言う前に、私が自分の人生を考えなおす勇気がもてますように、だけである(悲)

2011/11/02(水) ライフスタイル
10月の日本滞在はわずか1週間だったので、今は、帰ってきた翌日から時差ぼけに苦しむことなく、職場に出てきている。きのうだったか、人事部トップの秘書が退職するとニュースが流れた。私は、彼女のオフィスの前に座っているから、電話といった彼女の仕事ぶりに触れてきた。優秀な人だったと思う。電話口での対応なんか、へえ、プロはやっぱりこういう感じなんだ、と思ったことしばしばである。ああ、私にはできないな、と(笑)で、退職ニュースが流れてから、ちょこっとオフィスに顔を出して、これからどうするのか、と聞いた。アーカンソーに新しい家が買ってある、小さいけど、山の上の森の中にあって、湖まで歩いて10分、二年前に退職した夫が釣りを楽しめる、と笑った。ふ〜〜〜ん。日本のライフスタイルとはえらい違いだ。きっと退職後の家を何年もかけて探したのではあるまいか。夫婦そろって、退職を楽しみにしながら旅をして回る。。場所を問わず、望む家を探すのだろうか。それに比べて、日本人のライフスタイルは。。母のことを思うと、よけいに胸がふさぐ。。(悲)同じ家に50年以上住み続ける。。最後の最後まで抵抗するかのように、他人の手を拒否し、家にこだわりつづけたために手遅れになってしまった。同様のことを、90近い夫婦の世話をしている知人からも聞いた。家の中に尿の臭いが満ちても、ホームへの入居を拒むという。遠く離れて住む息子は、本人たちがそういうのなら、そうしてください、と言うそうな。それは、”本人たちの希望”という美名のもとの子の責任逃れである。親のことを本気でケアできるのは子供だけというのに、私も”責任逃れ”をしてしまった。もっと言えば、弱っていく親を見るのが怖かったのである。が、親の頑固さは、判断力を失っているくせに、いや、失っているからこそ、親という権威の尊厳を主張し、家にこだわり続ける。親が家にこだわったおかげで、誰が苦しむか。あとに残る子供たちである。私みたいに一人子なら問題は小さく、決断の責任はひとりでしょわねばならぬが、友達のところのように複数子供がいると、誰が親の面倒をみるのか、面倒を見てくれる代わりにもらう家やら土地やらといったお金との相互関係は、兄弟の人間関係をひずませるに違いない。いくら家をもらえると知っても、私だけがなんで面倒みなあかんの、という不満はすでに出ているという。病人の面倒をみる、病人が家にいるという圧迫感は、言葉に、お金に換えられるものではなかろう。”兄弟は他人の始まり”という諺?があったような。”家をもち、それにこだわってもろくなことがない。。それにひきかえアメリカ人は、”家”にこだわることなく、人生の節目を気軽に乗り越え、新しい生活をはじめようとする。一人になれば、気軽に老人ホームに入るに違いない。人間個人としての尊厳を守るか、それとも”家”やら財産、時間の記憶にこだわるか。。私も、母が住んでいた家の処分をそろそろ考えねばならぬ。ブルドーザーを雇って、つぶすだけとはようくわかっているのだが。。家がなくなれば、私も、あの家の記憶から自由になって、新しい人生をはじめられるかも知れぬ。あの家にいた自分には、いい思い出がないのである。(悲)でも母は言った、たかこがもう帰ってこないと思うと、寂しかった、たかこが帰ってくるのはこの家しかないから、ずっといなあかんと思ったと。(悲)ああ、親が守りたがる家と、その家から出ていった子とのギャップ。。(悲)そういえば、美智子皇后の実家の正田家の家を、確か地元商店街?の人たちが保存しようとしたがー金もうけのために???笑、皇后はつぶすことを望んだとか。皇后の覚悟のほどがわかるというものである。家を残される子供は、やっかいを引き受けるようなものだ。家は親がいてくれるからこその家であり、家を出た子供たちは新しく自分たちで、自分の家を築き上げていくものでなければならぬ。家をあげるから、親の面倒を見よ、と子に迫るのは、親のエゴにほかならぬ????家父長制とは、単に親のエゴをかっこよく言ったもの???(笑) 私も、そろそろ退職後の家探しでもしようかな。。。そのときが来たと自分で判断できるときに、その家を売って、老人ホームに入るーバターかサワークリームがべっとり載ったジャガイモだけは絶対拒否するぞ!!!(笑) 


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