〜ing〜アメリカつれづれ日記
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2011/09/26(月) 袴姿-追加(笑)-追加(怒)ーそして(諦ー笑)
週末に、居合いのまねごとを人前でした。英語による説明はむちゃくちゃ。。知るかあ。。(笑)で、経験したこと。。袴姿で町を歩くのがけっこう楽しい。自由なのである。そういえば、居合いクラスでいっしょになる日本人男性は、家ではほとんど和服で通しているとか言っていた。別に家だけでなく、外でも着ればいいのに。。私も一度やってみたいけど、着物はないので、この際、袴姿で通そうか。。袴に下駄はいて??父親の足袋を持って帰ってきてるよなあ。。。(笑)

27日ーはい、私の袴姿が、大学の新聞に載ってしまった。ああ、これで、袴をはく楽しみもなくなってしまった。(悲)小さな町にはそろそろうんざりしてきた。リタイヤして、ウィスコンシンの湖のそばの小さな村で、森と水を見ながらぼんやりと時間を過ごしたい??? 小説を書く能力があればなあ。。じぇんじぇんなさそう。。(悲笑)

28日ーなんと新聞には、写真だけじゃなくて、記事の下にあるバーコードをスキャンしたら、ビデオまで見られるようになっていることを発見。私のへたくそな英語やら居合いのパーフォーマンスまで見られるようになっていた。こうなると、怒りである。こういうことは、まったく知らされておらず、同意していないことである。前に地震の話をしたときは、キャンパス内のイベントだったから、大学新聞がカバーしても当然と思ったが、今回は、町の小さな店でのことである。なんで大学新聞がカバーしたのか。するのなら、その旨、伝えられているべきである。名前まで出されてさ。。。(怒)

30日ーそして、写真は、職場の休憩室の掲示板に張り出された。上司が来て言ったーたかこ、あれやったから、腰が悪くなったの??? 図書館でがんばりすぎて、腰が悪くなって、今週はコルセットをして出てきていたのである。ああ、あきらめ。。(笑) 

2011/09/22(木) 本物の力
きのうの夜、久しぶりに、本物の力を持つ人に会った。大学の歴史学部が全米トップ級の日本学の歴史学者、ジョン・ダウワーをMITから招いて、講演会を催したのである。日米戦争が専門だから、我が家にも著書が2冊あった。サインをもらおうというミーハー根性で、いそいそと出かけていった。(笑)講演が始まる前に、自己紹介をして、早速サインをもらった。そのとき、日系アメリカ人の収容所の話を教授のほうからしてくれたので、私のほうも、その関係の本を書いたので、それを英訳しようとしてるのだけど、配偶者が英語にうるさいばっかりに遅々として進まない、みたいな話をした。そのとき、教授の身体が発しているオーラから、ああ、いい人だなあ、と思ったのだが、講演を聞いて、それを確信した。一つの仕事を成し遂げた人は、やっぱりものすごく謙虚で、かつ誠実なのである。自分を売り込む必要もなく、自分を大きく見せる必要もなく、ただただ自分が人生をかけて打ち込んだ仕事を、ていねいに観客に提示してみせた。その姿勢が美しく、ものすごいエネルギーとなって発散されていた。それを吸い込んだ私は、講演そのものはわかったのが半分だが(笑)、ああやっぱり行ってよかった、という気持ちになって、幸せな気分で家に帰ってきた。しかも、講演からは、私が今書いている原稿にヒントとなる考え方までもらった。エネルギーが回るとはこういうことだ。やっぱり本物の力を持つ人は違うと感心してしまった。(笑)じゃあ、その本物の力はどこから来るのか。講演の中で教授は、自分の父親が1944年、フィリピンへ向かう途中で死んだ、と話した。戦艦が日本軍の攻撃を受けて沈んだのだろうか。そのとき教授が何歳だったのかはわからないが、戦死したと聞いて、なぜ父親は、死ななければならなかったのかという疑問が、心にわいたのではなかろうか。その疑問に自分なりの答えを見つけるために、一生賭けて、教授は戦争とは何かを追求したのではあるまいか。本物の力は経験から生まれると思う。なぜなら、自分の経験は世界でたった一つであり、自分の人生は自分だけのもので、ほかの誰にもまねができないことなのだから。言い換えれば、自分を見つめ続けること、自分をとりまくすべての事象がもつエネルギーのバランスーつまり人生が向かおうとしている方向性を見失わないようにして、自分の位置を確かめ続けることーそれは、自分が広い世界にあることを忘れないようにすることでもある。そこから本物の眼が生まれ、その眼が一つの仕事をなしとげたとき、人は謙虚になり、美しくなる。教授は、かなり耳が遠くなっていた。教授の枯れた美しさは老いも関係しよう。たぶん、若いときはかなりのラディカルだったのでは、と思わせる発言もあった。ラディカルも、本物である限り、いつしか美に転化していく。暴れられるときに思いっきり暴れておかねば。。(笑)最近、ノースウェスタン大学で見つけた新しい資料のおかげで、私の原稿は、全編手直ししなければならなくなった。もう300枚ぐらい書いてるから、手直しは苦しいけれど、ダウアー教授の姿と声を思い出しながら、がんばろう。。どんなことがあっても、書き上げてみせる!!! 私のたった一度の人生のために私は書く。大衆に媚びる売れる本なんか書くようになったら、おしまいだ!!!と、一人強がりを言いながら。。(笑)
そして今日のお昼、中華のファーストフードのテイクアウトを食べた。フォーチュンクッキーの中から出てきたのは、THERE IS EXCITEMENT TO BE FOUND WHEREVER YOU GO. 自分を信じよう。

2011/09/21(水) やっと
娘がアジアから帰ってきた。確か5月ぐらいから、カンボジア、マレーシア、タイ、ベトナム、インドネシアとうろうろして、最後に日本に1ヶ月ほどいて、やっと学校が始まる1週間前に、西海岸に戻ってきた。アジアの前は、夏学期かとかでバンクーバーにいたから、アメリカはほぼ半年ぐらい離れていたことになる。娘と同じ国にいるー確かに大陸のあっちとこっちと離れてはいるがー安心感を思うとー日本には、母のこともあるしで、しょっちゅう電話していた。。笑ー母が私が結婚してからのこの25年以上、娘はアメリカに住んでいます、という事実をどう咀嚼していたのか、と想像する。慣れてしまうとそうでもないかな、という気もする。(笑)娘だって、いつどこへ行ってしまうかわからないのだから。でも、世界中どこに行っても、のぞきに行ってやれ、という気があるから、それほど気にならない。だが、母の場合は、5年もののパスポートを二度にわたって取り、10年持っていたが、アメリカまで来たのはたったの1度の2週間だった。あの人の問題は、自分がパスポートをもっているということを、娘に言おうとはしなかったことだ。おいで、といわれるのを待ってたのだと思われる。パスポートとったよ、いつ遊びに行ってもいい、と子供に言えない親。その”誇り高さ”が、親子関係を極限までむずかしくし、自分を病気に追い込みもした、と思う。誇りなんて、くだらん、それも、自分の子供に向けて放つ親の誇りなんて。でも、誇りがなかったら生きていけないのも、アメリカ暮らしである。親という権威をふりかざさなければならないと考える伝統的日本(人)が考える誇りと、人間としての誇りをどこまでも追求して自分に対する誇りを考えるアメリカ(人)の誇りー権威主義者の誇りは、自分を小さくし、行き場のないところに自分を追い詰めるだけだ。太平洋戦争も同じようなもの???(笑)でも、自分をとことん追い詰められるだけの誇りこそが、母の存在証明であり、生きる糧にもなってきたはずだ。長年、母を嫌ってきたが、やっと、責めてはならないのだと思えるようになった。親の呪縛から逃れ、親を超えられる何かが、やっと見えてきたような気がする。娘曰く、日本がこんなに楽しいところとは知らなかった。お母さんといっしょの日本は嫌いだった。(笑)これからやっと始まるのかも知れぬ、私だけの人生が。 

2011/09/20(火) 乙武氏への抗議状5
記事では、乙武氏が赴任した小学校の職員室でのエピソードが紹介されています。共感を覚えました。トールクラブにも、小学校で教えた経験をもつAさんがいます。Aさんによると、子供たちに絵本を読み聞かせる教師の中には、悪者となった大きなマグロの話をして、Aさんの前で、マグロはAさんと同じだねえと子供
たちに平気で言い、子供たちといっしょに大笑いする人がいるそうです。教室全体の笑いの渦のなかに立たされて、どれだけAさんは傷ついたことか。問題意識をもたぬ、理解できぬ教師のいる教育現場、とりわけ小学校の現実は将来を危ぶませるものがあります。
 乙武氏は子供たちに、ご自分と同様の自己肯定感をはぐくんであげたいとか。子供たちの自己肯定感は、決して自嘲やら無神経な教師からは生まれません。将来の世代のために我々が声をあげ、しなければならないことは、目立たぬとも、日常のここかしこに山積しています。“臭いものにふたをする”どころか、悪臭は、社会のあらゆるところから臭ってきています。
 
 1ケ月ほど前、私は、ギネスブックを発行しているロンドンの会社に、質問状を送りました。どうして、世界一背の高い男女、背の低い男女、のような、人々の低俗な好奇心だけを満足させるような情報を必要とし、公表せねばならないのですか、と。まだ答えはありません。答えがあるとも思っていません。
 しかし、大事なことは、池の水に投げ込まれた小石が波紋を広げていくように、一人一人の人間が、社会に小さな変化を起こしていこうとする気持ちを持つことです。社会はみんなのもので、自分たちで作っていくものだからです。乙武氏のおっしゃるように、問題は一人ひとりが能動的に考えるべきです(57ページ)。
 そして必要なのは、たった一人ででもいい、池に小石を投げ込む勇気です。どんなに小さなことでもいい、疑問に思うことがあれば、まず自分の足元から小さな行動を起こす。そのために必要なエネルギーは、社会にすりよることのない、個人のempowermentからしか生まれません。
 先日、私は、電車の中で、若者やサラリーマンで占拠された優先座席の前に立っても席を譲ってもらえないおばあさんに、声をかけました。「おばあさん、席を譲ってください、と言えばいいんですよ」と。おばあさんをほんのわずかでも力づけられたことを願うばかりです。
 
 乙武氏の存在は確かに稀有なものであり、お持ちのエネルギーには巨大なものがあると思います。だからこそ乙武氏からは、私自身のempowermentにつながるエネルギーをいっぱい受け取りたいと思います。地味であっても懐の深い、広い心をもった、息の長い勇気ある活動を期待するものです。

*** 今ごろ、自分の文章を編集。。(笑)最後の段落ー巨大なものがあると思います。私は、社会から、「身体的特徴を目の前にいる当人に向かって、挨拶がわりに口にするのはやめよう」と訴えてきました。「私はカタワです」と言ってのけるのがバリアフリーにつながると考える乙武氏に、言われ続ける悩みをわかってもらえるものなのか。それでも、乙武氏。。。

こういう風に考えていくと、あのお兄さんのしてることって、しょせん障害のある体を売りにした、売名行為???(笑)

2011/09/19(月) 乙武氏への抗議4
 乙武氏に欠如しているように思われるのは、ご自分に与えられた恵まれた環境がもつ巨大なエネルギー、つまり知力、資力、能力などを、多種多様な少数派の人々のempowermentのために、すべての人々にとって社会が少しでも生きやすいものなるように、外向きに、社会の底上げに使っていこうとする視点でしょうか。
 
 記事では、乙武氏には、障害をギャクにさえしてしまえる"余裕"がある、とありますが(55ページ)、そんな余裕は、あくまでも社会の"主流"から見た、"主流"が受け入れ、扱える範囲内での"余裕"でしかありません。乙武氏のほんとの余裕とは、ご自分のエゴなり欲をうち消すことで、より広い視野をもって、乙武氏ほど恵まれていない、無数のさまざまな人々のために社会活動ができる、その懐の深さで発揮されるべきものです。それが、"35年生きて、差別や偏見を感じたことが一度もない"恵まれた人の社会的使命と私は考えます。
「カタワ」論ですが、記事から分からなかったのは、乙武氏が、ほかの障害者をも「カタワ」と呼ぶのかどうかです。アメリカでは、非アフリカ系の人間が、アフリカ系アメリカ人を「ニガー」と呼べば、人種差別の違法行為となりえますが、スパイク・リーの映画でも見られるように、アフリカ系同士が「ニガー」と呼び合うのを、非アフリカ系は批判することはできません。「カタワ」に関しても、当事者と非当事者の力関係を見据えた視座が必要なのでは、と考えます。

 私自身は、恵まれてきた乙武氏が「重度の障害があるのに明るい」(57ページ)おかげで、口封じされ、いやな思いをしてきた人間です。つまり、背が高いから、足が大きいからと、他人の暴言に悩んできたと他人に告白しようものなら、乙武氏と比べられて、あんな障害のある人でもあんなに明るく生きてるのに、あなたは何と贅沢な、その程度で悩むな、という論法で責められてきたのです。自分を他人と、とりわけ自分よりかわいそう、自分より下と思える人と比較し、優越感を感じることで、自分の状況を納得させようとする"処世術"は完全に間違っています。しかし、「勝ち組」「負け組」といった言葉が全国を席捲する日本社会は、そんな姑息な権威主義的処世術を奨励することで、少数派たちの悩みを口封じしてきたのではないのか。恵まれているがゆえに"明るい"乙武氏は、もしかしたらご自分がそんな日本社会のいびつさにおおいに貢献してきたのではないか、と自問自答されたことはあるでしょうか。少なくとも、日本社会が認めたがる姑息な処世術を打ち破るのは、"主流"社会に向けての当事者の"明るい"自嘲ではないことだけはご理解していただきたいと思います。

2011/09/18(日) 乙武氏への抗議 3
私はもう50代も半ばを過ぎた人間です。が、この年齢になっても、若いときに言われた「太平洋にごぼう」だの、今だに言われる「デカイなあ」といった言葉をネタに、自分を笑いものにしようとは絶対に思いません。他人が"ひとごと"に向ける底の浅い笑いは、かれらが無意識に持つ差別や偏見にお墨つきを与えるだ
けで、背の高い女性たちを取り巻く社会的環境を変えることはできないし、なによりも私にとって一番大事な、私自身のintegrityとdignityを自らの手で傷つけるだけだからです。
 何年か前に、金太郎の格好をしてイベントに出演することで、ハゲの劣等感を克服したとマスコミにとりあげられた方と何度か連絡をとりあったことがあります。その方はご自分を"勝ち組"と称されましたが、私は、ハゲを自ら吹聴して回り、金太郎の格好をして他人の前に立たねば劣等感を克服した気持になれないのな
ら、それは"負け組"コンセプトだと申し上げました。劣等感の真の克服は、一時的に高揚した気分にしてくれる、それも金銭やら知名度といった副産物をもたらす可能性のある、他人の目を意識した準タレント的自嘲パフォーマンスではなく、あくまでも個人のempowerment(この言葉も日本語にはない、ぐらいに私は考えています、たった一人ででも人が社会と関わることで、社会と対峙していく力を自ら身につける、といったところでしょうか)による、地道な行動・活動によってのみ可能と私は考えるからです。
 
 乙武氏が、ご自分を「カタワ」と呼ぶのは、乙武氏の自由意志であり、"主流"社会と向き合うための個人的"いちぬけた"戦略です。誰にも批判はできません。しかし、そのスタンスは、他の障害者の方々にも力—社会と向き合うエネルギーを与えるものなのでしょうか。金太郎の格好をして人前に立っても、決してほかのハゲの方々のempowermentにはつながらないのでは、と考えた同じ思いを、今、私は乙武氏の「カタワ」自嘲論に対して感じています。乙武氏が、"主流"社会にのみ目を向け、「真のバリアフりー」といった美名の下、少数派の自嘲を奨励されるのなら、「35年生きてきて、差別や偏見を感じたことが一度もない」恵まれた人の傲慢さではないでしょうか。少数派の、あくまでも人間としてのintegrityとdignityを尊重しようとするなら、自嘲など決
して許されてはならないはずです。そして、乙武氏が、日本社会が臭いものにふたをしようとしているように感じられるとしたら、それは乙武氏自身が、“上から目線”を持っているからではないでしょうか。 

2011/09/17(土) 乙武氏への抗議状2
過去6年間、背の高い女性たちとの連帯を模索してきて、私が学んだことは、社会と向き合うには、内向きと外向きという二つの方向性をもつ活動があること、そしてどんなことがあっても、"差別や偏見をなくそうというスタンス"を見失ってはいけないということです。なぜなら、そのスタンスには、人間としてのintegrityとdignityが賭されているからです。手持ちの英和辞典は、integrityとdignityを、高潔、誠実、威厳などと訳していますが、私自身は、日本語には、これらの英語の意味をぴたりと表現する言葉はないのでは、ぐらいに思っています。それは、人間を人間存在たらしめる根源的な価値です。人間なら絶対に失ってはいけない価値であり、その価値の獲得のため戦う、つまり自分が人間らしく生きるために戦うのは、人間としての社会的義務ぐらいに私は考えています。乙武氏が主張する「障害をネタにハハッと笑える社会こそが、真のバリアフリー」(56ページ)といったコンセプトこそ、人間のintegrityとdignityを凝視・追求しない、能天気な日本社会を象徴するものではないでしょうか。

背の高い女性たちも、ただ一度の人生を謳歌するために、人それぞれ多種多様な"処世術"を駆使して生きています。たとえば、自分はモデルになれる体型なんだと言い聞かせて、他人からの暴言を聞き流すとか、背の高い女性が好きな男性もたくさんいるという現実を知って安心するとか、その他もろもろ、差別と偏見に満ちた社会の厳しい現実に目をつぶり、自分で自分を必死で受け入れるためにさまざまな個人的戦略を練って、日々を過ごしています。生き抜くためのどんな"処世術"も誰にも批判はできません。
 が、明確に理解されねばならないのは、"処世術"とはあくまでも、当事者が仲間同士でなぐさめあい、力をつけあい、そして社会の現実に立ち向かっていくエネルギーを獲得するための"心のよりどころ"を提供してくれるに過ぎないということです。それが、記事の中で紹介されているような、肌やら薄い髪、脳性マヒといった、"一般的にはマイナスとされる身体的特徴をネタに笑いを取る"(55ページ)当事者お笑いコンビの笑いでしょう。当事者同士が 内向きに"傷をなめあい"、"泣き笑い"を通して互いを励ましあうことは誰にも止められないし、当事者にとって必要なことです。
 が、そんな内向きの笑いを、外部の非当事者が当事者同様に分かち合えるものでしょうか。分かちあわねばならないものでしょうか。自嘲をえげつなく、痛々しく感じる当事者も非当事者もいるのではないでしょうか。

2011/09/16(金) 乙武氏への抗議状 1
東京の編集部に電話をした。電話をとってくれたバイトの女の子らしい人の話によると、すべて担当の記者が判断する、とのこと。取材がありますとか言ってたから、たぶん外部の人間の文章は載せない、みたいな感覚を得たので、ここで公開だ!!!(笑) 結論はやっぱり、日本社会がちやほやする有名人には、ほんとの力はない、といったところかなあ。。(笑)乙武氏って、しょせん大手出版社の金儲けのツールになってるだけだ。大手出版社は、正しいことのために本は出さない。売れる本を出す。売れる本を出した編集者は出世する。どんな本が売れるかとなると、処世術にあふれた本だ。つまり、乙武さんみたいなかわいそうな人でもこんなに明るく生きてるんだから、私もがんばらなくちゃ。。私は健常者で、乙武さんより恵まれてんだから、幸せと思わなくちゃ、と思わせてくれる本だ。で、乙武さんは、たぶん大出世しただろう「五体不満足」担当の編集者がいる大手出版社をバックに、処世術本を出している限り、印税が入ってきて、生活できる、つまり、彼は、私が原稿で書いたような、姑息な処世術そのものなのであり、日本社会を変える気はさらさらなく、また変えることはできない!!!! 結論は、彼は、有名でいろいろもっともらしいことを言ってるわりには、何の役にも立たん(笑) で、たぶんこれが、大半の障害者が感じていることではないだろうか。(悲) それはそうと、ボツになった?抗議状をここに載せようにも、長すぎるだろうなあ。。何日かかるのか。。とりあえず、第一弾。。。

貴誌9月1日号に掲載された乙武洋匡氏の特別読物「なぜ僕は自分を"カタワ"と呼ぶのかー障害を笑えてこそ"真のバリアフリー"」を読みました。私は2005年に「大きい女の存在証明」を彩流社から刊行し、背の高い女性たちのトールクラブ「ひまわりの会」を立ち上げ、日本社会から背の高い女性たちに対する差別意識や暴言等をなくすための活動を始めた者です。
 
 この6年間に、社会の少数派ー"平均的"という形容詞と縁のない人々の問題は同根だと学びました。よって、障害者の視点から日本社会に問題提起する乙武氏の意図は十二分に理解し、その活動には心から敬意を表する者です。

 しかしそれでも、今回の記事は、私の目には、問題ありと映りました。というのも、明らかにそこには、乙武氏の限界が投影されており、かつその限界をご自身で正当化されているからです。限界とは、乙武氏が実に恵まれた環境にありながら、生計をたてる社会に問題提起せねばならないディレンマ、いや、恵まれているからこそ問題提起ができるのだという二律背反的な状況から生まれる、"主流"におもねる "処世術"です。記事の論旨の一つ、"障害を笑いのタネにする"という自嘲は、"処世術"以外のなにものでもありません。
 確かに、当事者にとって"処世術"は必要です。 いつもいつも世間に腹を立てているわけにはいきません。が、"処世術"は、当事者に一時しのぎの満足感を与え、社会も表面上は気持よく受け入れてくれるかも知れませんが、ほんとの意味で社会を変える実効力にはなりません。乙武氏の問題は、「差別や偏見をなくそうというスタンスより、障害がある人もない人も分け隔てなく接し、慣れが生じるほうがいい」(55ページ)と、"処世術" で"主流"社会にすりよることで、問題の本質を見失ってしまっていることです。それは、私には、乙武氏が記事の中で抵抗を示されている、障害者に対する一律的な"上から目線"や、害を"がい"とひらがなに変えるといった表面的かつ空虚なきれいごとでごまかそうとする社会の姑息さに迎合するものと大差なく思われます。


 

2011/09/15(木) させてください問題
日本に帰るたびにあっちこっちで聞く、言われる「させてください」にめちゃ腹をたてていた。ふん、自己保身ばっかり考えてるやつらめ、「させてください」を連発する人間は絶対に信じないぞ、と心に決めていた。(笑)すると、友達が教えてくれたサイトで、なんとこの「させてください」にえんえんと抗議しているジャーナリストがいて、その人の記事によると、「おばかな敬語」みたいな本がいっぱい出されているという。ああ、よかった、いらいらしてたのは私だけじゃないんだ。。(笑)ほっとしてたら、きのうだったか、母のリハビリをしてくれてる関係者から、「とろみ水分摂取は中止させてください」と一方的にメールが来た。なんやてえ。。プロなら、危険な状態にならぬようにして、リハビリを続けるのがプロというものやろ。一方で、口腔機能は使わなかったら機能が低下します、と言いながら、中止させてくれなんて、自分がプロではないことを証明してるようなもんとちゃうのか。。それも、とろみ水分を誤嚥しても、あんまり危険な状態にはなりません、みたいなことを書いておきながら、中止させてください、とは何事か。何考えてるねん。中止するな、きっちりとリハビリせよ、と返事を書いた。どうなることやら。。(笑)それにしても、介護のケアマネージャーの「させてください」連発の無能ぶりとか、その他もろもろ、あんまり変なことになるようだったら、この業界を調べて書くことを考えようか。(笑)と、腹を立ててたら、なんとか今の不安な状態をもちこたえられそうな気がする。。(笑)寝たきりになってる母は、自分をめぐってどんなバトルが展開されようとしているのかを知ることはないだろうし、知りたいとも思わないのだろうが、それはそれで哀しいものだ。(悲)

2011/09/14(水) 言いたいこと言いの社会的責任(笑)
とうとう同意した。なにやら日本文化についてのちっちゃなイベントが町のお店であって、そこで小さなトークをするということだ。ここ2、3日、一生懸命に電話をしてくる人がいた。私が、以前広島イベントで話をしたことなどを聞きつけて、電話をかけてきてくれた。日本文化について、などと大層なことを言われても、私はその専門家ではないし、第一日本を離れて、もう25年以上、日本文化なんて忘れてしまった。(笑)それでも、ふっと思い出したのが、おお、居合をやってるじゃないか、ということだった。(笑)すると、何かテレパシーでも感じたのか、その人がまた朝に電話してきた。日本のスピリットについてはどうか、という。ぎゃ、ああ、こうなったら、居合のスピリットについてでも話してやれ、と思って、とうとう同意したのだった。実は、日本で居合の本を買ってきたけど、まだ読んでおらず、トークとなると、いやがおうでも読むだろうという計算があってのことである。それにしても、本の表紙には、切ることは己を知ること、とある。こんなこと、英語で言っても、アメリカ人にわかるまい。どうせえ、言うねん。。(笑)そういえば、日本人の開教師がやってる居合の稽古場が遠いので、近くの町の道場に変えようかな、とか思ったりするのだが、聞くところによると、アメリカ人がやってて、アメリカ人というのは段をとると、もうそれだけでマスターになった気分で、ちゃんばらになってしまうそうな。。おお、それではなあ。。。昔、ダコタで日本語を教えてたとき、茶道は、デートの場だと思ってたと言った学生もいた。ハリウッド映画のおかげである。となると、トークの焦点は、ハリウッド映画は間違ってる??? (笑)人間のヒエラルキーが嫌いで、アメリカに住んでいるというのに、剣道のときも居合いのときも、どうしても、人間のヒエラルキーを感じさせられるときがある。うんざりである。なんで、居合いをやってるか。動く禅だと思っているから。つまり、内なる精神を強くするため。。なんのために強くするのか。。アメリカ人に、私の存在を見せつけ、認めさせるため。私の居合いとは、切るとは、己を知るため、からは程遠い、かなりエゴがでしゃばったものらしい。。それで、トークができるの?? 知るかあ。。。(笑)

2011/09/08(木) 秋の庭
めっきり秋めいてしまった。薄い長袖のシャツの季節である。朝は肌寒くなってしまって、庭に出にくくなってしまった。その上、秋の庭は寂しすぎる。あんなに、春が来たとエネルギーいっぱいだった植物たちが明らかに縮んでいくのがわかる。それを見ると、自然に骨と皮のようになってしまった母親を思いだす。ああ、これが終わるということなのか。。(悲)もう一つ、老いとは何かを感じさせるのが柳の木である。ここに来たときに植えた木だから、10年以上裏庭を楽しませてくれた木である。ハクロニシキという日本の木である。2年ほど前まで、元気いっぱいで枝が無秩序になっていたので、素人頭で形を作ろうと、ついつい枝を切った。すると、この2年ほど樹勢が弱まってしまって、新しい枝はほとんど出てこないわ、葉が出てもすぐに枯れるという状態になってしまった。で、枯れた葉がついてる枝はみっともないでまた切っていくと、今年の柳はまるで坊主頭みたいになってしまった(悲)枝の形だけの彫刻みたいである。こうなると、心の中で、もうあんた、用済みだ、みたいなことを言ってる自分がいるのも知っている。あんなに毎年春の新緑とピンク色を楽しんだというのに、なんと冷酷なことか。で、考えるに、ああ、これが高齢者に対する本音の気持ちなのだろうか、と思ってしまった。相手が元気なときは、調子よく言って、まるで利用するかのようにちやほやするくせに、相手が調子よすぎると、勝手に切ったりして、相手を困らせてしまう。で、その結果、調子が本格的に悪くなると、もう用済みだ、みたいに切り捨ててしまう。。。若い人間の傲慢さだと自分でもよくわかっているが、いつか自分も高齢者になるのだから、この若者の傲慢さに対して、自分でも心の準備をしておかねばならぬ。というか、自分が通ってきた道なんだから、自分がされるようになったら、きっとすぐにわかるんだろうなあ。。で、あきらめてしまうのだろうか。柳よ、なんとか生き延びろ。そして、来年の春は、きれいなピンク色の新しい葉をいっぱい出してくれ。。。それは、まさしく今の私の母への願いである。ああ、宇宙のすべてはつながっているのを実感する秋の庭は。。。やっぱり寂しすぎる。(悲)

2011/09/06(火) 事件あれこれ(笑)
日本から帰ってきて1週間。まだまだ午後は、6時間ぐらい平気で寝てしまう時差ぼけのど真ん中。夜中になればまた寝られるから、まあいいか。(笑)日本で電車に乗っていて、吊り広告で、「五体不満足」の乙武氏が「障害を笑えるのがほんとのバリアフリー」みたいな記事を書いたことを知って、むかっと来て(笑)、帰りの飛行機用にその記事が掲載されている週刊誌を買って読んで、この1週間、時差ボケ頭でその記事に反論する原稿を書いて、今日、無事に送りだした。反応があるのかないのか。。。”有名人”の”障害者”の乙武氏に反論するなんて、という反応があるかも??? (笑)それにしても、”一般的にはマイナスと考えられている身体的特徴”(記事より)を、バリアフリーという美名をかぶせて、当事者に自嘲させることを奨励するなんて、「ひまわりの会」とはまっこうから対立するコンセプトである。それこそ「35年間、差別にも偏見にもあったことがない恵まれた乙武氏」の”上から目線”の傲慢さではないのか、が私の主張である。(笑)「五体不満足」の乙武氏だからこそ、反論は許されない、みたいな無意識の社会的合意があるのなら、それこそ問題である。ふんだっ(笑) そういえば、ギネスブックに手紙を出して、もう1ヶ月になるが、これまた返事はないなあ。。。正論すぎて、返事ができないのだろうなあ。。正論が通らない社会・世界は腐っている!!!(笑)ローカルの事件といえば。。。去年、その前と、何度か私も参加したヒロシマ・ナガサキイベントである。今年は、大学の施設を使って、ポスター展が行われた。イベントを主催する牧師さんに、私が、広島市がやっている資料貸し出し制度を紹介したのである。まじめな牧師さんはどうやら資料貸し出しを申しこんだらしい。先月までポスター展が開かれた。と、そのポスター展に、「日本の虐殺」と題して、日本軍が殺した人間の数を並べたビラが張り出された。南京虐殺が何百万人、バターンがどうのこうの、パールハーバーがどうのこうの、とあって、広島と長崎での死者数なんてとるに足りない、という論法である。ほらほら来た、と思ったが、もっと面白いのは、このイベントには、大学の教授連がからんでいたことだ。英語学部の教授が詩を朗読したりしたらしい。で、こういうビラは侮辱だと、施設の管理をやってる部の教授ーこれは心理学学部のアジア系の教授らしいーも巻き込んで、直接現場で管理する人間にどういうことか、と尋ねたら、その人間は、このビラは侮辱ではない、と答えたらしい。おお、そうだろ、そうだろ、私が噛みついたアホ女と同じである。(笑)このレベルの人間は、問題を理解できないのである。もしかしたら、この現場の人間がビラを張ったのかも知れぬ。配偶者には、あんたも事の顛末に関わるか、と聞かれたが、スミソニアンでもできなかったことを、この大学でできるわけないよ、で逃げた。(笑)いつだったか、退役軍人たちの抗議で、スミソニアンでも原爆展示が中止になったことがある。戦争と国家、愛国心とナショナリズムという複雑かつ巨大なパワーポリティックスのはざまで、日本人は必死で自分の立ち位置を確認して、生きねばならないのがアメリカ生活である。しかも、敗戦国民である。負けた側の人間が勝者のごうまんさに、どう対処していくかーアメリカ生活では、ほんとの意味で気を抜くことができないというのが、マイノリティの姿である。乙武さんの、脳性マヒの人が自分の脳性マヒを笑えばいい式の自嘲推奨が社会のバリアーフリーにつながるなんて、脳天気すぎて話にならない。何を甘えた、腑抜けたこと、言ってるねん、ひっこめ!!! (笑)戦争と国家、愛国心とナショナリズムは、命を賭ける人間のintegrity, dignityを問うからむずかしい。私は、自分をカタワと呼びますよ、と、上から目線で、主流におもねる処世術と自嘲を薦め、自分は恵まれてきたを”売り”にする障害者に、人間としてのintegrity, dignityが理解できるのだろうか。(怒)


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