|
2013/04/15(月)
孤高
|
|
|
長いあいだ忘れていた言葉である。”孤高”−俳優三国連太郎がなくなったというニュースで使われていた。神戸で母が亡くなってから、何もすることがなくなって、珍しくレンタル店のメンバーになって、「飢餓海峡」を借りてきてみたことがあった。日本が貧しかった時代の人間の話である。すごい映画、見てよかったとは思ったけれど、最後に三国連太郎扮する主人公が自殺したのが、戦後70年を経た今を生きる人間としては、どうも納得がいかないという感覚が残ったのを覚えている。ゆがんだ社会ーつまり貧困と対峙し、殺人を犯さねばならなかった人間の弱さを訴えているのはようくわかっていたが、アメリカ生活が四半世紀を経ると、その弱さを抱えたまま、社会のゆがみをにらみつけたまま生き続ける選択肢はなかったのか、と思ったのである。それって、結局は、”開き直り”かも知れないけれど。。(笑悲)そう、アメリカで生きるには、”開き直り”とそしられても、自分の決定をまっすぐ生き切るしかないのである。それは、同じニュースで流れていた、ビルマのサンスーチンさんのことばがはっきりと表現していた。日本人の学生が質問したのである、どうやって抵抗の気持ちを維持できたのですか、みたいな。答えは、一度自分がやると決めたら、やりきるしかないのです、みたいな。。これである、アメリカで生きていくのに必要なのは。。やりきるのである。だから、飢餓海峡で自殺する必要はなかった、と感じたのだろう。でも、裏返せば、自殺は美学でもあっただろう。犯罪者で生ききるのも美学、自殺も美学ー対峙したのは社会のゆがみーどちらの道をとっても、最後に残るのは”孤高の生の美学”。。。
|
|
|