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2015/06/30(火)
宗教?の必要性
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きのうの夜、時差ぼけ頭で、日本からのニュースをぼやっと見ていた。新幹線から煙が出て、止まった、というアナウンサーの焦った声のあとは記憶なし。で、今朝のニュースを聞いて、びっくりした。おっさんが新幹線内でガソリンかぶって、焼身自殺したそうな。小田原だの三島だの、先日行ったところの名前が出たので、ああ、乗ってなかってよかったと思った。でも、私が乗り合わせてたら、一人で死ねんあほ、と腹立てるのに忙しくて、逃げ遅れて死んでたかもしれぬ、と思うとぞっとした。(笑悲)電車への飛び込みといい、一人で死ねんのか、あほ、と腹立てる気持ちは変わりないけれど、きっとこの人、目立たない、おとなしい人だったんだろうな、と思うと、やっぱりそういうニュースが流れていた。要するに、こういう形で死ぬ人は、最後の最後、世界に自分の名前を残したいのである。名もなきまま、くだらぬ人生だったと思って、誰も死にたくないのである。人に注目されて死にたいのである。で、この人、注目されたのは確かである。新幹線が1960年代にはじまってから初めてのこととか。で、思ったこと。人間にとっての宗教?の必要性である。要するに、心のよりどころである。このごろ、毎朝起きたら、コーヒーをもって庭に出て、植物の様子を観察するのは一種の宗教行為だな、と感じている。庭木や花の声が聞こえるのである。もっと日光が欲しいな、水が欲しいな、と言ってるのが聞こえるような気がするのである。だから、あっちの枝を切ったり、土をほりおこして球根をあっちに植え替えたりと、朝から忙しい。そういう行為に、私は生の本質を見る。私は必ず死ぬ。だから、枯れた幹から1本だけ葉っぱを出し、そこからさらに葉をのばそうとする桜から巨大な力・勇気をもらっている。死と生は背中あわせであることを毎日実感していたら、別に死に急ぐことはないのである。ましてや、公共空間で死ぬ必要はない。路傍の花と同様に、人知れず死ぬほうがよほど美しく自然である。生にこだわると、人は醜くなる。私の宗教?には、聖書かコーランのように、偉い人が話した言葉はない。ただただ、世界を常に感じることーいつか自分が消えていく世界を内にとりこみ、自分と一体化させることに生きている充実感を覚えている。娘には言ってあるー私が死ぬときは、緑いっぱいの世界に置いてほしいと。緑の木のこずえを見据えて、私は最後の目を閉じたいと思っている。一人で死ねんのか、と腹は立つけれど、やっぱり生をいつくしむ時間がもてなかったのだろうことが悲しい。人間に宗教は必要である。宗教とは人間が創るものなら、人は自分だけの宗教をもつべきだと思う。が、自分の宗教を他人に拡げる必要はさらさらない。拡げたいという権力欲にとらわれるようになったら、それはもう宗教ではない、と私は思う。そういえば、あのオウムのおっさん、まだ生かされてるそうで。。法治国家もめんどくさいものだなあ。(笑)
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