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2020/06/13(土)
昼カラと人間の本質とは
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テレビで、「昼カラ」という言葉を知った。高齢者が昼間にカラオケをすることだそうな。やったあ。。行こう。。(笑)1200円でコーヒー飲み放題で、1日歌っていられるそうな。そりゃ、毎日楽しみにして行くでしょう。(笑)で、この昼カラから、コロナの感染者が出ているそうな。でも、カラオケをやめてしまうのは、高齢者の精神衛生によくないと思う。歌が上手下手よりも、高齢者は自分の居場所が必要なのだから。このごろ感じるようになった。人間が背負っている時間の長さこそが生きることの本質ではなかろうか、と。65年生きてきた人間の気持ちは、20代、30代の若い人にわかるはずがない。たとえ自分の娘でも、である。でも、同じ年齢のアメリカ人となら、たとえ言語文化が違っていても、わかりあえる何か共通基盤があるような気がする。これが「生」ではないのか。70を超えた女に子供を産ませるというアホドラマは、「生まれてきてよかった」を何度も言わせていたが、人は、「自分は何のために生まれてきたのだろう」「今、自分は何をすべきなのか」を自問することはあっても、「生まれてきてよかった」は、日常ではほとんど考えないことだ。なぜか。人は、無意識だけど、常に意識しているからである。自分は必ず死ぬと。生まれてきたら、必ず死ぬのである。その前提で生きている。そして、自分たちに与えられた糸車の大きさは、人種、貧富、国籍、文化の違いなどとは関係なく、ほとんど同じ長さなのである。確かに、最近は100年生きる人も増えてきたから、100歳と80歳とでは考え方も違うかもしれぬ。というか、考え、それを表現する力が残っていたら、の話だが。。生きた年数が、人間を決めていると思う。それが「命」であり「生きる」ことだ、と。アホドラマがアホだったのは、人間が背負い、与えられている時間の力をまったく考慮することなく、「命」「生きる」ことを頭でっかちにとらえ、ただただ「産めよ増やせよ」と、まるで女を犬猫扱い、いや植物扱いすらしたからだ。このごろ、庭仕事をしてびっくりしている、植物も動き、位置を変えていくのである。種を作って、風やら鳥やら虫やらで、その種を広範囲に広げ、命をつないでいく、というだけではない。根を使って広がり、あれえ、こんなところにこんな子、いたっけ、といった感じに、思いもよらぬところから顔を出し、昔の自分ーつまり古い株ーは枯らし、消えていこうとする。その絶妙のタイミング、スペース感覚に、人間の生を思う。時間には勝てないなあ、と。時間がすべてである。時間の重みほど、人間が共通して理解できるものはないのではないか。だから、同じような時間を背負っている人間たちが集まる「昼から」は大事ーコロナで殺されても大事なのでは?(笑)アホドラマのように、「生まれてきてよかった」などと、頭でっかちの文脈で空虚な言葉を口にして、自己陶酔している暇なし。1秒1秒、止まることなく糸車の糸をひっぱり続けるのは戦いである。戦い続け、糸車の残り糸の長さを想像しながら、問うのである、「何のために今、生きているのか」と。何のために生まれ、生きてきたのだろう。自分に残された時間に何ができるだろう。何をすべきなのだろうか、と。
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